新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

初めまして。
しがないクリエイティブ・ディレクターをいつの間にか卒業し、
しがない広報マンにジョブチェンジした使用上の注意と申します。
しがない駄文を書き連ねては日頃の憂さを発散更新しておりますので、
御用とお急ぎではない方はお誘い合わせの上、反転離脱されたし。
曰く「我ニ追イツク敵機ナシ」。

はいどうも、

子どもが嫌い、

使用上の注意です。

世間から後ろ指さされようと罵られようと蔑まれようと、嫌いなのである。



なぜか。

順番に説明していこうじゃないか、諸君。



1.子どもは、朝が早い。

三度の飯より睡眠が好きな使用上の注意にとって、

二度寝三度寝はナニモノにも代えがたい貴重な行為である。

が、彼らにとってそんなことは歯牙にもかからない瑣末な事情であり、

太陽が昇る前からギッコンバッタンと騒いでは眠りを妨げる。

まぁ1億歩譲ったとして、勝手に彼らがそれぞれに遊ぶ分にはよしとしよう。

俺とて話の分からぬ大人にはなりたくない。

しかし彼らは遊ぶに飽きたらず、最終的に起こそうとする。

使用上の注意こと、この俺を。

悦楽のひとときを二度寝三度寝のまどろみの中で堪能しているこの俺の、

引き締まった肉体の上に己のたるんだ肉体を乗せてくる。

必然的に突然降って湧いた荷重に驚嘆し、

緊急メンテを実施すべく機能を停止する俺の呼吸器関連臓器(つまり肺)。

となれば酸素の供給が絶たれた俺の脳髄は警報を打ち鳴らし、

肉体の主(つまり俺)に覚醒を強いる。

かくして二度寝・三度寝と命名された極楽は終焉を迎え、

ひときわ寝覚めと機嫌の悪い大人が今日も無事量産される始末である。



2.子どもは、己に忠実すぎる。

基本的に躾の厳しい家に育った使用上の注意ことこの俺は、

食事時のマナーについては少しうるさい。

といっても「食事中はしゃべってはいけません」とか

「食事中は食器で音を立ててはいけません」とかいう、

時代錯誤も甚だしい厳格なものではなく、

精々「食べ物で遊ぶな」「周囲を汚すな」ぐらいのものではあるのだが。

それにしたって、彼らの食事は凄惨の一言に尽きる。

好きなモノは目をむいて我を忘れてむしゃぶりつき、

だし汁や肉汁やその他何か分からない汁を周囲に発散しながら喰らいつき、

嫌いなモノは目をむいて我を忘れて暴れ出し、

調味料や汗やときには食材そのものを周囲に投げつける。

食事が終わる頃には何らかの事件が起こったのではないかと

第三者に類推されてもおかしくない悲惨な空間が現出してしまうのだ。

それも毎回。

食べたいものは食べたい。

食べたくないものは食べたくない。

それが彼らの正義であり、ルールであり、真理なのであるからして、

大人の側の論理など“子供銀行券”ほどにも役には立たない。

かくしてマイ・スイート・ホームは汚物と食材と何か分からない汁にまみれ、

心の汗を流しながら拭き掃除に精を出す大人が今日も無事量産される始末である。



3.子どもは、狡猾だ。

あれやこれやと書き連ねたが、彼らは天使の笑顔で全てを忘れさせてくる。

これが一番厄介だ。

ニッコリと微笑まれれば、何をしてもされても許してしまう。

むしろ、許さない俺の方が悪いかのように思えてくるから罪深い。

あな恐ろしや。あな恐ろしや。

くっそ。

これ以上騙されてなるものか。

彼らは悪魔の下僕。

己の欲望を極限まで追い求める強欲亡者。

なればこそ俺は彼らの計略にはまるまい。

嫌いなものは嫌い、嫌なものは嫌。

子どもなんて大っ嫌いなの!









<ニッコリ>

あぁ~、かわいいな~。


それじゃ。

はいどうも、

生きていれば色々あるよね

使用上の注意です。

それはつまりあれだ、

そういう時代よねぇ、的な。

分からない人はこのあたりの動画を見るが良い。



うん、ますます意味が分からない。



とにかくあれだ、「分からない」とは「分かる」の否定形であって、

「分かる」というのは「分ける」からきているらしく、

文字通り“分解する”というのが語源、らしい。

あくまでも又聞きの伝聞の風の噂程度でしか知らないけど。

それはまぁともかく、もう少し「分かる」=「分解する」説に乗ってみる。

つまり何事か理解の対象物を細かく構成要素に分割し、

個々の事象についてそれぞれ状況や状態・現状を把握し、

その全てについて理解することで元の全体像が見える、的な。

そういうアレがベースになって「分解・分割」から「分ける」になって

「分かる」が一人でできた!的な。

よく分からない人はこのあたりのYahoo!知恵遅れ知恵袋でも見るが良い。

多少は理解が進む、かも知れないね。



とはいえ、さはさりながら人生には分からないことだらけであり、

人が分割して分解して個々を理解して全体像を知ることができるのは、

あまねく存在する森羅万象のうちのごく僅かな一握りの出来事に過ぎず。

自身とは遠く離れた異国の世界で起きた内乱一歩手前の騒乱が、

なぜ発生してなぜ終わらないかなど知る由もないわけで。

そして人の心の深奥の、そのまた奥底に眠る本音も真意も

他人には窺い知ることなどできないわけで。

分けられないことこの上ない。

ただ、そうやって分からないことが多ければ多いほど

人類は知的好奇心を旺盛に働かせるのもまた事実であり、

そうした、ときに暴走しがちな理解への渇望が、ときとして

人類の文明にコペルニクス的転回をもたらすこともある。

それが天使の福音なのか悪魔の囁きなのかはまぁともかく、

ここまで人類社会が存続してきた原因というか源泉というか、

原動力の一つに“知りたい”という欲求があげられることは間違いない。

分けられない世のアレコレを分けたい、分かりたいと願ったからこそ、

人は発展を遂げてきたといっても決して過言ではない、はず。

ヴィヴァ、分ける。



それだけに、思うわけですよ。

分からないこととは分けられないことであるからして、

それを分かるにはまず分けることから始めるべきではなかろうかと。

とにかく分ける、袂を分かつ。

それが最初の一歩になりやしないかと、思うわけですよぼかぁ。

それじゃ。

はいどうも、

ふと仕事用のメモ帳を見返してみると

「Do DEMO! Yeah!」

と殴り書きがしてあった、

使用上の注意です。



英文法にのっとれば「Do」という動詞が先頭にきて

大文字であることから命令文であろうことが推測されるし、

「DEMO」は恐らく「Demonstration」であろうから

実現、デモ(行進)、論証・証明の意であることが分かる。

で、最後の「Yeah!」は「Yes」の口語ではあるが

この場合は多分、興奮の感情を表現しているんだろう。

というわけで直訳すれば、

「デモ(行進)をしなさい!!!」とか、

「証明しろ!!」とか、

「実演してみなさいYO!!」的な感じになる、はず。

と、まぁ文章そのものの意味は何となく分かるにしても、

その文章が書かれた事情や背景が、さっぱり謎。

つまり、なぜそんな言葉が書かれたのか?



仕事中にデモ行進でもしたくなったのか?

普段から目立つことを避けてひっそりと生きている、この俺が?

それはあんまり考えられない。

というかそもそも「~をしろ(しなさい)」という

命令形で書かれているのだからして、

その行動主体は俺以外の誰か、のはず。

じゃあ俺は一体誰に、デモをさせたかったのか。

大体「DEMO」は何の「デモ」なのか?

職場の環境改善か?待遇改善か?それとも全く別の何か?

もしかして何らかの実演をお客様にしてみせろ、的な話か?

でも最近手がけた案件で“実演”が必要な作業なんてなかったはず。

とにかく俺には思い当たるフシもない。

そして仕事柄誰かにデモを命令する立場にもないし、

その必要もない。



はてさて、謎は深まるばかりである。

というか、メモ帳の同じページに書かれた他の文字なり文章なりは

しごくまっとうで真面目な仕事関連走り書きなのに、

「Do DEMO! Yeah!」だけが意味不明も甚だしい。

スーツ&ネクタイ集団の中に一人だけハーフパンツ&ランニングシャツ、

ぐらいの圧倒的な違和感。

お前は一体何なんだと、

お前は裸の大将かと、

小首をかしげること間違いない。

だがしかし、事実は事実として確かにある。

仕事用メモに書き残された「Do DEMO! Yeah!」。



で、さっぱり分からないから口に出してみた。

「ドゥー・デモ!イェー!」

「ドゥーデモイェー」

「ドーデモイェー」

「ドーデモエー」

( ゚д゚)ハッ!

「どうでもええ!」のことかっ!!

それじゃ。

はいどうも、

Shut the fuck up!!

なんて叫びたい気分、

使用上の注意です。

それはもう漆黒の夜空に向かって喉の張り裂けんばかりに、ね。

今夜は無性に腹が立っている。



さてさて皆さん久し振り。

ここにきて突然のブログ更新と相成り申したわけですが、

何があったかって?聞かないでくれ(きっぱり

何だか知らんけどモヤモヤするなーと思ったら、

何だかそれはイライラなのかも知れないなーと思えてきて、

何だかやっぱり叫びたくなるような、そうでもないような。

で、「そうだ、ブログ書こう」ですよ。

順調に意味不明。

かつ、支離滅裂。



ここで思い出されるのはその昔、俺が敬愛して止まない

ながいけん大先生の超名作「神聖モテモテ王国」にて、

登場人物が叫んだ一言。

『ままならねー』。

もうね、至言ですよコレ。

極めて短い言葉に凝縮された人生の本質。

誰もが一度は感じる現実の不条理を象徴する感情のほとばしり。

そんなアレやコレやが詰まりに詰まった名言だと思うのですよ、俺は。

と、よくご存じないという不敬な輩皆さんのために

詳細をご紹介しようと考えてはみたが、面倒になってやめた。



とにかくあれだ、人生なんて思った通りに進むわけがない。

むしろ思わぬ方向に転がり出すのが人生であって、

ゴールまであと1マスというところで転がり出たサイコロの目は6。

ムダに5マス戻された上に書かれていたのは「スタートへ戻る」的な。

いやいや、ゴールまで残り1マスで出た目の超過分はノーカウントだろ、

みたいな抗弁もむなしく一人スタート地点へ帰る俺(のコマ)。

敗北感を抱きしめながらトボトボとスタート地点へと歩く俺(のコマ)の

背中に浴びせられるのは、同情でも憐憫でもなくライバルプレイヤーの嘲笑。

スゴロクというのもまた、人生の悲哀を表現した哀しみの玩具だったのだね。



えっと、何だっけ?

そうそう、人生思い通りにならない、ね。

果たしてこのブログでも何度繰り返してきたか定かではないほど

何度も何度も繰り返し繰り返し書き殴ってきたテーマではあるけれど。

何度繰り返しても満足できない。

まさに、I can't get no satisfactionだ。

苔むすことさえない転がる石のように、

自分を転がしていくべきかいかざるべきか。

転がる石のように…。

それじゃ。

はいどうも、

幸せってなんだっけ?

使用上の注意です。

確かだいぶ前にも同じような書き出しで始めて、

美味い醤油があることではないって書いたような気がするが気にしない。

同じ人間が書いてるブログなんだから

長いこと書いてればネタがかぶることだってある。

ねぇ、そうだろう?(ファンキーモンキーベイビーズ風)



ファンモンといえばDJさんが実家の住職を継ぐとかどうとかで

解散しなさったけど、個人的にはあの甘ったるくて前しか見てない

歌詞とか世界観がどうにも苦手だ。

常にポジティブな言葉で応援され続けるのも結構苦痛なんすよ、俺の場合。

だって短いようで長い人生、他人の言葉を素直に受け取れるときもあれば

裏返してこねくり回してひねってみたくなるときもあるじゃんね。

そんなときにあの暑苦しいボーカルが暑苦しい感じで

幸せを抱きしめよう”とか“生きてる喜びをずっと忘れないで”とか

絶叫しててもさ、本当に俺のことを思ってくれてるなら

とにかく今は黙っててくれ放っといてくれ、って思うわけよ。

あ、音楽利権ヤクザJASRAC先生に遠慮して詳細な歌詞の引用は控える。

まさに小さな親切大きなお世話。



いや、別に彼ら自身と彼らの楽曲、

そして彼らのファンをけなすつもりは全くなくて、

ただ俺という個人に落とし込んだ時の素直な気持ちを書いただけなので

その辺りはどうかご理解を。

思想信条の自由と表現の自由による加護が俺にももたらされんことを願う。



話を元に戻そう。

“幸せ”とは何か。

そもそも、“幸福”っていうのは目に見える形で

どこかにパッケージされて並んでる、もんではない。

少なくとも幸せ感が溢れ出さんばかりのCMを展開している

セブン&アイホールディングス
が取り扱いを開始したなんて話は聞かない。

だからこそ、目に見えないが故に、分かりにくい。

と同時に、幸せってのはある状態を指し示す言葉なんだけれども、

ある状態ってのは人生という連続した時間の中で捉えれば一瞬の刹那なのだから、

幸せ=状態が永続するわけでもない。

古の賢人たちが残したように、一瞬先は闇。

「幸せだな~」なんてつぶやきながらウクレレを弾いていた次の瞬間、

乗っていたヨットが転覆して哀れ海の藻屑、、、なんて展開もなくはない。

そうなると余計に“幸せとはなにか”を結論づけるのが難しいわけですね。



と、まぁ例によって例のごとくムダな思考の迷子を続けていた俺の目に、

こんなページが飛び込んでくる。

ポジティブな人になるための、シンプルな12の方法

幸せとは、自分が良い方に変化した時に感じるもの。このことを肝に命じよう。
言い換えれば、固定された1つの状態が「幸せ」ではないのだ。そんなものを
求めても失望するばかり。常に前向きでいることが、幸せになる鍵だ。


つまり幸せとはある一点における固定された状態ではなく、

連続する変化の中で感じるものだと。

ふ~むなるほど、と。

何だか腑に落ちたので、紹介してみた。

なぜそんなページを閲覧していたのか、

詳細には触れずとっとと寝る。

それじゃ。

はいどうも、

特に書きたいことがないけどブログを書くのが俺のクセ、

使用上の注意です。

まぁあれよ、なくて七癖ってやつね。

他にも複数のクセが確認されてはいるが、

その全容はいまもって明らかになっていない。

これを世に、使用上の注意の七不思議というとか、いわないとか。

うん、言わないんだけどね。



それはまぁともかく、今日は台風である。

窓の外に目を転じれば風がごうごうと唸りを上げ、

雨がばらばらと叩きつける荒天の夜。

こんな日はただでさえネガティブシンキングの使い手、

やり手のネガティバー使用上の注意こと俺の頭の中で

むくむくとネガティブな思考が頭をもたげてくる。

頭の中で、頭がもたげるとはこれいかに。

いや、別に答えは求めていませんけどね。



それにしたってしかし、話を変えよう。

最近の俺は、

これでもかと吹きつける逆風は台風のもたらす風のごとし。

己の将来の行く末が曖昧模糊として見えぬこと林というか森のごとし。

それでも負けてたまるかと歯を食いしばって働いても働いても

我が暮らし楽にならずであるからして家計の車は火のごとし。

次々とうず高く積まれる案件と難題と課題と懸案と苦悩と懊悩は山のごとし。

まさに一人風林火山状態。

というか、風森火山というのかい?

こうやって誤った知識を世に広く知ろしめるのもまたをかし。

と同時に、片腹痛しとでも言われるんだろうね。



う〜ん、もういいや。

なんか疲れたからとっとと今日思ったことの結論書いて寝る。

今日思ったこと。

結局誰だって自分のやってること考えてること

言ってること思ってることが正しいかどうか、

自分では結論付けられない、はず。

だってそれが正しいかどうかは状況や場所や時間や地位や立場、

その他諸々の変動要因に大きく左右されるのであって、

絶対的な正解なんてあるはずもないんだから。

それでも何とか答えに近しい何かを選ぼうと頑張るんだろうけど、

やっぱり最終的には自分の感覚であったり尊敬できる誰かの承認であったり、

とにかく”正しい”と思えるだけの外形を備えた何かに頼るしかない。

人によっては神という概念上の存在かも知れないし、

また別の人によっては上司とか先生とか師匠とか呼ばれる存在かも知れない。

それが自分の内なる自分に依拠できればこれほど心強いことはないんだろうけど、

人は(というか俺は)そんなに強い存在じゃない。

たまには大きな安心できる何かによっかかって思考回路を停止したいわけですな。

自分で考えなくても正しい答えが与えられる授けられる下される。

これはもう、ある意味天国のようなものかも知れん。

正しいか正しくないかなんて終わりのない問いかけから開放されるわけだから。



ま、それが全てだなんてこれっぽっちも思っちゃいないし、

それもまた正しいという保証はないのであって、

最後はやっぱり自分の脳味噌に聞くしかない。

そう考えると少しげんなりする初秋の深夜。

台風が過ぎ行き、風が少し体に染みる。

寝よう。

今回もヤマなしオチなしイミなしの、ヤオイエントリ。

それじゃ。

はいどうも、

人生は思ったよりほろ苦い、

使用上の注意です。

数十年前、思ったとおりに人生が運ぶだなんていう

甘っちょろい考えをウン億光年の彼方に捨て去りはしたものの、

こうまで思わなかった方向へ人生が転ぼうとは誰が予測できようか。

望んだ方向とは逆方向に人生というサイコロが転がり始めるシーンを、

何度呆然と見てきたことだろうか。

それでもなお、人生は裏目を示し続ける。



さりとて、己の境遇を呪ったところで事態は何も変わらず、

ただただ悠久の大自然のごとく時が過ぎていく、有給を消化させながら。

どれだけ己の不遇に汲々と苦しんでいても、救急車など誰も呼んでくれはしない。

それどころかほうぼうから上がる逆境という火の手に追われ、

ほうほうの体でその場を逃げ去るのみ。

そうそう、結局人生なんてそんなもんであるからして、

早々簡単に己の欲求が叶ったり想像した未来が手に入ることなんてない。

全てはこの世を創造したもうた神のみぞ知る。



と、考えてみればみるほど

どうしようもない現実が鈍器のようなものに思えてきて、

強く殴りかかってきかねない勢いで俺の方に迫ってくる。

非常口はどこだとバールのようなものでこじ開けるべく悪戦苦闘するも、

この世のどこにも脱出口なんぞ用意はされていないのだから、

現世はまさに非情愚痴。

しかし、それではこの世におぎゃあと生を受けた意味がない。

せめてなにがしかの救済措置があってもよかろうもんと、

我ながら思わず思わずにはいられない。



ただ、そこもまた非情な理に従って予測するに、

俺が望む俺の救済はそれを俺が望んでいるからこそ俺の望みとは裏腹に

俺の望まない方向へ誘う力に抗いきれず、もたらされないのがお約束。

であるならば、もはや自らを救うのは自ら以外にない。

そこは立派なイチ社会人として、セルフ・コントロールがモノを言う、早見優。

うん、ごめん、思いついたから言ってみただけ。

他にも山田優とか佐藤優とか候補に上がったけど、

ここは先人たちへのリスペクトを込めて、最も古典的な選択肢を選びとってみた。



閑話休題。

整理する。

我が人生はどうやら裏目の星の下にある。

が、しかし、そうした境遇を呪ったところで誰も助けてくれない。

しかも裏目の星の下にある以上、救済を望めば望むほど救済は遠ざかる。

それならここはもう、自己変革にこそ死中の活を求めるべき。

よし、それでいこう。

なお、救済は手に入らなくてもキューサイの青汁なら手に入る。

有償だけどね。

世の中金よ。銭よ。キャッシュよね。

それじゃ。

はいどうも、

何を書きたいわけでもないのに性懲りもなくブログに帰ってきた、

使用上の注意です。

知ってる人は知っているが、

現在絶賛絶不調。

様々な逆風が同時に吹き荒れて、

人生の歩みは遅々として進まず。

つーかこうも強い逆風は、俺も久し振りだ。

絶え間なく襲い来るアゲインストの風に向かって、

一歩また一歩と苦心惨憺歩みを進めるも、

時折やってくる強烈な雨と雷に打たれて油断したが最後、

これまで進んできた数十歩に相当する距離をまた吹き飛ばされる、俺。

それでも諦めてなるものかと、

日々痛みを増す親知らずをものともせずに歯を食いしばり、

にじりにじりと前へ前へ。



まるで盆と正月が一度にやってきたかのような

逆境のデパート状態と必死に闘いながら、

一体俺が何をしたのかと自問自答を繰り返してみても

思い当たるフシのありすぎる我が身の迂闊さだけが骨身に染みるわけで。

頼んでもないのに艱難辛苦がバリューセットで届けられる気分。

いや、正確に言えば過去の己が積み重ねた

行状の成れの果て、ではあるのだけれども。

それでもただ、ただ人生は続く。

決して諦めることの許されぬ、人生が続く。

仮に過去に描いた理想の未来を手に入れられようがなくとも、

少しでも理想の未来へ近づくために歩み続けるしか、

人類に残された選択肢はないのであるからして、

俺はただ歩み続けるしかない。



ことここに至っては、自分が書き連ねる文章の何が面白いのだとか、

どこに学びがあってどんな発見があるのかなんて、

オムライスの上に乗せられたパセリをどけるかどけないか程度の重みしか持たず。

何だったらバニラアイスの上に乗せられたミントの葉っぱを

どけるかどけないかぐらいの重みしかないのかも知れない。

まぁなぜか例えがファミレスをテーマにしている臭いのは気にしないとして。

パセリだろうがミントだろうが、セロリだろうがシナモンだろうがどんと来い。

全部皿ごと平らげてやる。

いや、皿を食うことはできないので、そのあたりは訂正しよう。



という冷静さも判断力もまだ持っている自分に、少し安心する。

それに、この文章だって自分に関する情報をどこまで公開するかの、

しごく現実的で打算的な判断が働いているのであるからして、

最悪だ最悪だとのたまいつつもまだまだ俺は大丈夫。

と、自分に言い聞かせる余裕さえあるわけですよ、ファインマン先生。

だからみなさん、ご安心召されよ。

諸兄らの愛した使用上の注意は健在である。

ただ、少し疲れているだけ。

あと、文章が面白くないのはいつも通りなので悪しからず。

それじゃ。

はいどうも、

悪い巡り合わせが巡り巡って何周したのかもはや計測不能、

使用上の注意です。

賢明なる諸君らに言いたいことがある。

曰く、「悪いことは重なる」であり、

「不幸はまとめてやってくる」であり、

「人生裏目の連続」だ。

最近、なぜか常にモニタが滲んで見えるのは心の汗のせいだろうか。



とはいえ、こうして何らの救いももたらさない駄文をつらつらと

書き連ねるだけの体力と気力と感性はまだ残っているということはつまり、

むしろ現状をあまねく公開することで慰めと憐憫と同情と優しさを

募ろうとしていることの証左であって、その性根はさもしい乞食に近い。

本当に危険水位が迫ったとき人は無言で、あるいは意味不明な叫びを伴って

一目散に現実から逃避を図るのであるからして、

一応理路整然と己の不遇を言語化しつつタイピングしているような

状況はまだまだ余裕と判じざるを得ない。

結局のところ使用上の注意ことこの俺の心象風景をしごく客観的に、

一切の同情的バイアスを抜きにして描写するとすれば…



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まだだ、まだ終わらんよ。だ。



とはいえ、逆に恥ずかしげもなく弱音を書き綴るぐらいには逆風が

我が身に吹き荒れているのもまた事実であって。

ちょっと油断すると一瞬で心を持って行かれそうな気もしないでもない。

そういう意味では自分なりに自身の心のケアというか

ハードラック・タイフーンに対する支え棒的な被害抑止の努力というか、

それなりの工夫が必要だと感じないわけでもないわけで。

もちろん様々な方々から有り難いお言葉を縷々頂いたりもしているので

それはそれは有り難い心持ちになっているのだから、

更なる安心を獲得するためのアレをね、自分にね、施しておこうかと。




唐突ながら人生という試合にタイムアップがあるとするならば、

今の俺にはこの言葉がふさわしい。



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有難う、仙道さん、安西先生。

俺、もうちょっと頑張るよ。

それじゃ。

はいどうも、

そろそろ色んなことを“止め”にしたいお年ごろ、

使用上の注意です。

無理に無理を重ねて築き上げた砂上の楼閣は、

やがて自らの重みに耐えかねて崩壊するという。

地味だが地道にコツコツと土台を積み上げた方が、

結果的に世紀を超えて残る遺構となる。

そう考えると肉体的にも精神的にも無茶を繰り返して手に入れた成果は、

やがて訪れる衰えの前になす術もなく崩れ落ちるしかなく。

現にその徴候はそこかしこに見え始め、

必死に漆喰を上塗りした所で根本の部分で構造部材は腐り始めている。

一見派手な趣向を凝らした綺羅びやかに見える成功は、

あと数年もすれば露に消える。

なにわのことも、ゆめのまたゆめ。



考えられる方法は3つ。

1.場所を変える。

2.方法を変える。

3.場所も方法も変える。

どれを選ぶにせよ、今必要なのは変化であり、挑戦であり。

今を永続のものとして考えるのはあまりにも幼く、無邪気に過ぎる。

肉体はいつか衰え、精神はいつか摩耗する。

もう、これまでのやり方は続かない。

その前提を忘れるべきではない。

そしてこれまでのやり方を続けたくもない。

変化なくして前進なく、墨守は座して死を待つに同じ。

過去の栄華に縛られることなく、己の身と心を解き放つべし。

アディオス。

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