新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

初めまして。
しがないクリエイティブ・ディレクターをいつの間にか卒業し、
しがない広報マンにジョブチェンジした使用上の注意と申します。
しがない駄文を書き連ねては日頃の憂さを発散更新しておりますので、
御用とお急ぎではない方はお誘い合わせの上、反転離脱されたし。
曰く「我ニ追イツク敵機ナシ」。

僕たちは、自分たちが騒々しい喫茶店にいることをすっかり忘れていたようだ。年
崎の厳しく理不尽な主張に自分の思いをぶつけようとするあまり、かなり大きな声
が出ていた。門馬は、そんな僕をクールダウンさせるように言葉を紡ぐ。

「正直さ、年崎の言うことに一理あると俺も思うわけ。いいことを言おうとしたと
きに限って何だか気取った言い回しとか気の利いたセリフを何とかひねり出そうと
するから、やっぱり失敗する可能性は高い。笑いも同じでさ、笑わそう笑わそうと
すればするほど底なし沼に引きずり込まれるような感じでスベるんだよね。でも、
それは多分誰にでも言える話であって、特定の誰かに限定されるもんでもないんじゃ
ねぇかと思うぜ?なぁ年崎、そう思わねぇ?」
「それはそうかも知れないが、十人いれば十色揃うぐらいなんだから個々のトーク
スキルはバラバラだ。それならこいつが会話の起点になるより誰かもっと上手いや
つが話を始めた方が有意義じゃねぇか」
「いやいやいやいや、そもそも門馬がいってる論点のずれってなんだよ?」

また話題がどんどんおかしな方向にずれていくような気がして、慌てて僕は軌道修
正を試みる。しかし、どうやら僕には議論を操る力などないみたいだ。ごうごうと
音を立てて流れる長雨の後の川みたいに年崎と門馬の話は流れていく。

「トークスキルが人によって違うのは認める。誰だって3割バッターになれるなら、
プロ野球は商売にならん。ただ、俺がいってるのはあくまでも一般人の話であって、
飛び抜けて話が上手いやつはとっとと業務用のどでかいスポットライトを浴びる世
界へ旅立てば良いだけだろう。そうじゃなくて、普段は日の当たらない地味な世界
に生きる俺たち一般ピーポーが、たまにはうっすらと弱々しく光る頼りなさ気なス
ポットライトを浴びるときだってあるんじゃねぇかってことだよ」
「仮にお前の話に乗っかったとしても、やっぱり納得はいかねぇなぁ。最低限のス
キルがない人間は、スポットライトを巧妙に避けながら生きるべきなんだって。じゃ
ないとしょうもない話に付き合わされるその他数十億の民が路頭に迷う」
「路頭に迷うってなんだよ。俺の話は人の一生を左右する力があるのか」
「お前はちょっと黙ってろ」
「お前はちょっと黙ってろ」

突然主役の降板を告げられた売れない役者は、こんな気持ちを味わわされているの
か。いや、売れない役者の知り合いはいないし会ったことも見たこともないけれど、
今の僕はまさにそんな気持ちを味わっていた。しかも突然。悲しみを癒してくれる
のはぬるくなったアイスコーヒーなんかじゃない。断じてない。それでも僕は、も
はや原型を留めない、氷らしい何かが浮かんでいる元・アイスコーヒーに口をつけ
る。年崎と門馬はどうやら、今の芸能界についての議論へ移ったらしい。

「おぅ、待ったか?無事だったか?」

長い旅からついさっき帰ってきました、とでも言いかねない勢いで、樫波が現れた。

「どうせいいことを言おうとして、しょうもないことしか出てこないんだからやめとけ」

年崎はそういって僕の話を遮った。内心むっとしながら、確かにそうかも知れないなと
僕は思う。いつもそうだ。その場その場、シチュエーションに合わせて聞いている人を
笑いの渦に巻き込もうとして、惨憺たる結果に終わる。それがいつものことだった。

「お前は自分から何かを言うよりも、誰かの発言を面白おかしく料理する才能があるん
だから、そっちに振った方が良いんだって、力を」
「でもさぁ、俺だってたまには人を笑わせて感心させて感銘を与えるときだってある…」
「一流のプロ野球選手の条件を知ってるか?」

僕の話をさらに遮って年崎はそう問いかける。

「10回のバッティングチャンスで3回ヒットを打つ。それだけだ。逆に言えば、10回打っ
て3回当たれば1年で数億円の収入を手に入れる可能性が生まれるってことだぜ?」
「俺だって10回もチャンスがあれば2回か、多ければ3…」
「1回あるかないか、だろ?」
「そんなことない。この前だってパプアニューギニアの…」
「プロとアマチュアを分ける条件って知ってるか?」

年崎は僕の話を聞く気がないらしい。

「アマチュアだって運が良ければ90点の回答を出すときがある。何回かやればプロを打
ち負かすことだってできるかも知れない。でもな、プロは常に80点以上を叩き出すわけ
よ。まぐれじゃなく、狙って高い水準の結果を出し続ける。それがプロってやつだ」

ペテン師の軽妙洒脱なトークに自意識を奪われ、操られ、最後には契約書に判をついて
しまう。まるで自分が今まさに詐欺師の口車に片足を乗せたような気分になり、慌てて
僕は年崎の話に反論を試みる。

「ちょっと待てって。僕はプロじゃないし、そもそもプロとかアマチュアとか、何の話?」
「喩え話だ。そのままだとよく分からない複雑怪奇な概念を、誰にでも分かる身近な話
になぞらえて説明してやってんだよ。つまり、お前の話はつまらない。だからお前は何
も話すな」

果たして僕は年崎に対して怒っていいのかダメなのか。ここまで自分を否定されるとそ
れさえ自分で判断できない。ただ、それでも年崎の話にはある種の説得力があるように
感じられる。

「い、いや、まぁ確かに俺が何かを話して聞く人の心を打った経験はあまりない。正直
少ない。でも、でもだからといって発言を禁じられるいわれはないだろう」
「そうだな。全くしゃべるな、というのは俺の本意じゃない。さっきもいったように、
俺はお前の能力をある程度評価はしてるんだ。訂正しよう。お前は誰かの発言を待って、
発言しろ。その方が良い。絶対良い」

僕は知っている。モノゴトに絶対ということはない、ということを。そして何につけ“絶
対”を使う人間はロクでもない、ということを。

「何かさー、論点ずれてね?」

黙って僕と年崎の言い合いを聞いていた門馬が、突然スイッチが入ったように喋りだす。

はいどうも、

どうでも良いことが気になって本当に大切なことを見落としがちな、

使用上の注意です。

だって、気になるんだもん(ミャハッ ☆彡



それはそうと今日は、かつて使用上の注意ことこの俺が、

世の中の暗く澱んだ裏側を知らず、純粋で可愛げのあった少年時代の話。

純粋ボーイ・俺は、「マンガで分かる ことわざ大辞典」とか

「ことわざマンガ大全集」とか、そういうたぐいの本をよく読んでいた。

で、その時子供心に疑問を感じたわけですよ。

「“二兎を追うものは一兎も得ず”って言うけど、

 “一石二鳥”って何やねん」って。

曰く、欲張って多くのものを追いかけると結局何も手に入らないはずなのに、

僅かな労力で期待以上の成果を手に入れてどうすんねんと。

アフォかと、ヴォケかと。

う~ん、今思ってもなんとイヤなガキなんだろうか。

しかし、そこはそれ、子供ならではの純粋な視点に基づく問題提起ですよ。

しかも純粋な俺は純粋に疑問と真正面からぶつかって悩むわけ。

「欲張るとイカン。でも、ニ鳥手に入る可能性も捨てがたい…。

 一体どうしろと?」



同級生に聞いても分からない。

教師なんて敵だから聞けるはずもない。

当時通っていた学童保育の先生に聞いても腑に落ちない。

両親にいたっては「自分で調べなさい」の一言。

あれ?俺って意外と恵まれない幼少期を過ごしていた、のか?

目から止めどなく流れ出る汗はさておくとして、

果たして“二兎を~”v.s.“一石二鳥”はどちらに軍配が上がるのか。

まぁそんな疑問もこのエントリを書こうと思い立った今の今まで

忘却の彼方に追いやられていたわけなのであるが、

こういうときは偉大なる文明の利器・Google先生に聞くのが早い。

早速俺は声高に叫ぶ。

曰く、ggrks(ググレカス)。



二兎を追う者は一兎をも得ず
欲を出して同時に二つのことをうまくやろうとすると、
結局はどちらも失敗することのたとえ。

一石二鳥
一つのことをして、二つ以上の利益を得ることのたとえ。

以上、「故事ことわざ辞典」より。



ふむ。

つまり前者(二兎を~)はある行動に臨む際の心構えを説いたものであり、

後者(一石二鳥)はある行動の結果を表現したものであるからして、

その両者は同一ベクトル上に存在せず対立関係にもない、とな?

もっと言えば前者(二兎を~)は“欲張るな”というある種の寓意というか

教訓というか戒めというかそういう類の意味が感じられるのに対して、

後者(一石二鳥)は単に状態を表したに過ぎない!

まぁ無理やり後者(一石二鳥)に教訓を見出すとするならば、

『2つ以上の利益を手に入れられる可能性もあるんだから、

 積極的にトライしてみれば良いよ』って感じかね。

おぉ、何かスッキリした。

長年詰まっていた水道管の汚れが一気に流れ去った気分だ。

これぞ、最高に「ハイ!」ってやつだァァァァァァァハハハハハハハハーッ!

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はい、こうしてムダな疑問に貴重な時間を浪費させられるわけですね。

みなさん注意しましょう。

それじゃ。

はいどうも、

幼少期にビートルズを繰り返し聞かされたお陰で

英語のヒアリングは良い、と固く信じている、

使用上の注意です。

ほら、何つーの?英語耳ってやつ?

聞くだけなら何とか人並みにできる、はず、きっと、多分。



それはそうと、小学校での英語教育が必修化されるとか、

未就学児童の英語教育が流行ってるとか、

企業の公用語として英語を導入するだとか、

TOEICで一定水準の成績を残せなければ管理職に昇進できないとか、

とかく英語を話せる人間を育てよう的な機運が盛り上がってる。

確かに英語は世界の共通言語だし、

国内市場が少子高齢社会の影響でシュリンクせざるを得ない我が国としては

グローバル・マーケットに打って出なければならん、というのは分かる。

移民の導入やら留学生の増加やらで

英語ネイティブなコミュニティ構成員が増えるかも知れない。

という可能性を考えれば英語の必要性が高まるという主張はさらに説得力を増す。



でも、思うにそれは違う、そうじゃない。

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幼稚園児とか保育園児は言うまでもなく、

小学生に英語を教える必要性ってあるのかね。

日本語能力でさえあやふやで発展途上な彼らに、

英語を教えることの意味って何スか?

そもそも英語なんてあくまでもコミュニケーションの手段であって、

人生の限られた貴重な時間を費やして手に入れるべき最終ゴールではない、はず。

肝心なのは英語を使って諸外国の人々と交流し、

新たな発見や異文化に対する理解を深めることで

さらに価値ある学びやら教訓やら財貨やらの果実を得ること、でしょ?



であれば英語が話せるようになることよりも、

目的を達成するために役立つ発信すべき情報(あるいは教養)の蓄積や

相手を説得するために必要な論理力の強化が優先されてしかるべきじゃねぇのっと。

だから、英語を学ぶ前にもっと学ぶべきことがあるはずなんだよ。

語学ってのはどこまでいってもHow to say?の世界であって、

より重要なのはWhat to say?なんだから。

つまり、どのように言うか?よりも何を言うか?ですぜ。



中身のない空理空論を流暢に英語でしゃべる

インチキ日本人を量産しても仕方ないじゃない。

と、ほとんど英語のしゃべれない使用上の注意が申しております、

と、お伝え下さい。

どうか。

はいどうも、

最近脳みその衰えをとみに感じる、

使用上の注意です。

人の名前が出てこない、

昨日食べた食事が出てこない、

簡単な英単語が出てこない、

慣用表現とか適切な言い回しが出てこない、

そして何が出てこないかさえ出てこない。

やばいよやばいよ。

出川



まぁ元から人の名前を覚えるのが苦手だったし

食事の優先順位が低くて食べ物に対する執着心が希薄だし、

英語どころか国語の成績だって大して良くはなかったし、

「本が好きです」とか言いながら読書量は至って普通だったし、

冒頭に書き並べた様々な脳みその衰え事例は

そもそも自分の能力不足な気がしないでもないけれど、

最近は今まで以上にやっぱり衰えてきた気がするのですよ。



一般的に人間の肉体的なピークは10代後半~20代前半だそうで、

それを過ぎると筋肉量やら反射スピードやら動体視力はただただ衰える一方らしい。

で、超一流アスリートとかは肉体的な衰えに対して

洞察力やら先読み力やら経験値に裏打ちされる別ベクトルの能力を伸ばすことで

選手寿命を長期化するんだってさ。

彼らにとって競技における能力ってのは明日のおまんまに直結しているわけだから、

肉体的能力の衰えを別の能力でカバーして

トータルの能力値を下げないための努力は必要不可欠、かつ生命線。



そう考えると日々ビジネス社会の荒波に揉まれながらクライアントの無理難題や

所属組織の無慈悲な業務指令という高いハードルを

クリアし続けなければならない社会人も、ある意味アスリートに近い。

特に、彼または彼女の能力の衰えが明日のおまんまに直結するという図式は

スポーツマンと社会人の近似性を強力に証明していると思うわけですよ。

で、あるならば、脳みその衰えを感じる俺って実は、

肉体的な能力の衰えを隠しきれなくなってきたベテランスポーツ選手に

なぞらえることが可能であるといえる。

若手ピッチャーの豪速球や切れ味するどい変化球に目が追いつかない、

肉体的に衰えはじめた野球選手が配球を読んでコースを読んで

決め打ちの強振を多用するように、

俺も脳みその衰えをカバーすべく何らかの能力を磨かねばならん。



人生すなわちこれ修行。

社会人としての必要な総合値が周囲の求めるレベルを下回らないよう、

常に何らかの切磋琢磨と自己修練を重ね続けねばならん。

生きるってしんどいにゃー。

( ´Д`)=3

はいどうも、

幼少期に両親から厳しく躾けられた子どもは結局、

何歳になっても誰かに与えられる規範意識に縛られるのではないかと考える、

使用上の注意です。

つまり、何をするにしても許されるのは自分以外の第三者=権威が

許可した行為のみ、という意識に自縄自縛されている、という仮説。

自発的・自律的な主張や判断を無意識的に禁じてしまい、

誰かからの指示や許可がなければ一歩も動けない(あるいは動かない)

大人になってしまうのではないだろうかと。



「最近は指示待ちの若者が増えてきた」ってよく聞くけど、

それも幼少期の過ごし方(育てられ方)に原因があるのかも知れん。

戦後復興期は家族総出で日々の生活を維持することに汲々としていた、

からこそ、子育てにもある程度の距離感があったはず。

しかも親世代の上にはさらに祖父母世代が併存していたわけで、

子どもから見れば親という権威・権力の上に、それを上回る祖父母が君臨している。

もっと言えば強固な地域コミュニティが影響力を持っていた時代でもある。

そうした親・祖父母・地域という複雑に入り組んだ多重権力構造は

ある種の空白地帯を生み出し、それが子供の価値基準を育てていた、気がする。

そのとき子供に求められたのは、自らがどうなりたいかという目的意識と

その具現に必要な権威・権力を選択する判断能力であろう。

だから、自らを利する権威を主体的に選択し、その時々で最適な言動を

自律的に選びとる能力が磨かれるわけですよ。



高度経済成長を経て生活にある程度のゆとりが得られた親世代。

専業主婦という存在が登場し、彼らが家庭内の一切を差配するようになったとき、

子どもに振り分けるリソースが飛躍的に増加した。

結果として親と子供の距離は良くも悪くも接近し、しかも

核家族化の進行や地域の崩壊がそれに拍車をかけた、と思う。

親に怒られてもかばってくれる祖父母は遠く、

親の監視下を離れた子供を縛る(時には守る)権威としての

地域コミュニティはもはや形骸化してしまった。

必然的に子供に対する親の干渉領域が増加し、親の権威は絶対化する。

こうなれば子供は、単一構造の虜囚にならざるを得ない。

アレをしたらダメ、コレをしたらダメが連発され、

選択できる他の権威がないからこそ子供は自発的な判断能力を奪われていく。

やがてその積み重ねは”自分がどうなりたいか”という目的意識さえ喪失させる。

だって、親の権威に従う他に選択可能な道がないのだから。

その結果が強烈な規範意識に縛られる子供(今の若者)と、

指示待ち大人の増加、ではなかろうか。

真の”ゆとり世代”とは、親世代を言うのかも知れん。



が、ここまで書いて何だが、こうした考え方はオススメしない。

何でも他人のせいにしていたら、イカン。

良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ?

つまりこのエントリは、タイトルにもあるように反面教師ネタである。

その点を改めて強調しつつ、オレは悪くない感をアピールしながら

こそこそと逃げる。

アディオス。

はいどうも、

ゴールデンウィークをグレーな感じで過ごしているなう、

使用上の注意です。

何がゴールデンだよバカヤロー。

こっちゃあ特に出かける予定もねぇし遊ぶ予定もねぇわで

どんより灰色連休だよバカヤロー。

くそったれ。

くそったれ。

くそった…、れ…。。。



別に悔しくとも何ともないんだぜ?

とか言いながらオレは恐らくこの連休中、

Facebookを一切見ないだろう。

どうせ中型連休に浮かれた友人知人が

「海外なう」とか「旅行なう」とか「デートなう」とか

そういう浮かれたつぶやきなり頼んでもいない現状報告なりが

否応なく飛び込んでくるはずだから。



今年の年明け、1/2(水)から底冷えに冷えきったオフィスで一人、

仕事始めに勤しんでいたオレの過ちを思い出す。

ちょっと休日出勤に疲れたから息抜きがてらFacebookでも見るか。

とか思うんじゃなかった。

アノ時のオレ、残業中あるいは休日出勤中にFacebookなんて見るな。

黙っておとなしく粛々と業務に励み給え。

そうでなければ全く関係のないサイトにでも行き給え。

インターネットの海は果てなく広く、果てなく深い。

が、そんな今のオレの助言など届くはずもなく

過去のオレが開く地獄の扉。

Facebook。



まぁ出るわ出るわ。

正月休みを利用して国の内外へ恥を晒す友人知人の醜態が(暴言)。

どれだけページをスクロールしても出るわ出るわ、満面の笑みが。

写真と文面から溢れ出るエンジョイ感。

あまりにも熱いものや冷たいものを触れた時

人間はとっさに神経回路を遮断するというが、

まさにオレの脳は友人知人のはしゃぐ姿を認識の外に追いやった、多分。

しかし、どれほど神経回路を遮断していたとしても

熱さ冷たさが人間のタンパク質に与えるダメージは防ぎようがないという。

まさにオレの脳はダメージを受けた、多分。

目から止めどなく溢れ出るしょっぱい汗。

これは夢か幻か。

ここはどこオレは誰。



そこから山と積まれた案件に取り掛かるまでの時間は、永遠のよう。

切れ味するどい出刃包丁で、オレの時間は切り取られていた。

まさか、オレのクリエイティブなスキルに嫉妬した誰かが石の矢に貫かれ、

スタンド能力を発現した結果として、時間が消し飛んだ?!

って考えちゃうぐらいに錯乱するオレ。



オレに告ぐ。

残業中や休日出勤中はもはや言うまでもない。

特に予定のない連休期間中でさえFacebookは見るべきでない。

いや、見るな。

見ると死ぬ。

ウソじゃない。

オレ自身がその生き証人じゃないか。

思い切ってネット断ちしようかなぁ。

くわばらくわばら。

はいどうも、

前回のエントリでは自己研鑽とか自己啓発について

「何が得られるかなんて考える暇があるならやってみろ」的な内容を書いてみたが、

いざAmazonへ行ってみると足がすくんで購入に至らない、

使用上の注意です。

というか、既に我が家の本棚には多種多様・多士済々な

ビジネスハウツー本が誇らしげに並んでいるというのに、

積ん読本をこれ以上増やしてどうする。

が、しかし、それでも、恥を忍んでモノ申す。

敢えて流行りに乗っかるとすれば、

いつ言うか?

今でしょ!!だ。



まぁそんなバカで蛇足な余談はさておき、

それにしたってこの世には“より良い人生”を目指す迷える子羊たちに示された、

神の啓示にも等しいビジネス格言・心得・ノウハウその他etc…が多すぎる。

30歳までにしておきたいウンたらとか20代のうちにしておくべきホンたらに始まり、

落ちている千円札は拾うなやら情報は一冊のノートにまとめなさいやら

いっとき流行った命令形ビジネス新書に、売れる営業マンの7つの習慣とか

上司の心得48ヶ条とかもうなんだよ(逆切れ)。

多すぎる。

とかく多すぎる。

そうは思わないかい?

ここまで多いとハウツー本を読むことだけで人生が終わってしまうばかりか、

全人生を費やしたとしても読破できないのはもちろん、実践なんて夢のまた夢よ。

より良い人生のために購入した書籍が、人生をダメにする。

もはや喜劇だ。



それに、ぶっちゃけ意志の弱さには定評のあるオレとしては、

アレもコレも守らなければならないルールが課せられてもねぇ…って感じ。

というかこのブログを今まさに読んでいるそこのアナタだって、

数多のルールやマインドセットが用意されていれば、

「え?今ってどのノウハウを活用するんだっけ?」ってなるはず。

なるでしょ?

なるでしょ。

まさに厳しすぎる日本の道路交通法規が

かえってユーザーの遵法精神をオミットしてしまい、

結果的に危険な自動車運行が蔓延してしまうパラドックスに近い。

多すぎるルールはかえって機能しないのだ。



大体、様々な各種ルールを日々実践し続けられる強靭な精神の持ち主は、

放っておいてもある程度の高みへたどり着くわけですよ、勝手に。

だからこそビジネスハウツー本の作者たちは、

もっと低い地平に降りて意志が弱く忘れっぽい庶民のためにこそ、

その持ちうる情熱と知識と表現欲求を総動員すべきではなかろうか。

この論理に従ってオレがビジネス書を書くとしたら、こうだ。




■タイトル「何事もひとつに絞りなさい」。

■概要

序章「あれもこれも手を出すからダメなんだ」

1章「できない自分を自覚しなさい」

2章「遠くを見ずに近くを見なさい」

3章「まず目の前の仕事から片付けなさい」

4章「目標はどうせ次々に湧いてくる」

5章「最後まで諦めない」

終章「オンナも目標も絞った方が良いってね」



ページも内容も薄い本だろうなぁ、これ。

同人誌かよ。

それじゃ。

はいどうも、

「自分磨き」とか「自己啓発」というコトバに胡散臭さを感じずにはいられない、

使用上の注意です。

いや、もちろん“より良い自分”を目指すための努力とか

“幸せな人生”を手に入れるためのマインド改革とか、

そういう取り組み自体を否定する気はさらさらないんだけれども。

ただ、広告という枠の中で金の匂いをプンプンふりまきながら、

「アナタのためなんですよー」なんて顔をしながら揉み手で迫られると

「うるせーばーか」って言いたくなるわけよ。



と同時に、社会人をレベル・アップさせることでもっと生産的な

理想社会が実現する、と本気で思うなら無料でばらまけよ、

なんて極論が頭をよぎるわけで。

もちろん価値あるものには対価が絶対的に必要であり、

代価がなければ知恵の拡大再生産は成立しないのであるからして、

自らの人生を向上させる価値に金銭的出捐を拒絶する道理はない。

むしろ積極的にそれらの価値に投資することで

さらに高次の価値を生み出した方が、

まわり回って自分を高みに引き上げることになる、はず。

直近の身銭を惜しんで将来のお宝をみすみす見逃すなんて、それこそ愚の骨頂だ。



ただ、やっぱり小遣いが日々目減りしていく寂しいお財布事情を抱える

貧乏サラリーマンクリエイターの一人としては、

どうしても目先の損得勘定が先に立つ。

いくら“将来のメリット”を強調されたとしてもそれが自分の目の前に

具体的な形を伴って現れない限り、出費は避けたくなるのが人情ってもの。

その意味で、摂取する情報・概念・指南がどのような変化をもたらすのかを

正確に想像し、金銭的コストといずれ得られるであろうベネフィットを

比較衡量する能力が、ポイントになるんじゃね?

ということはつまり、「売れる営業マンの秘密」だとか

「力強いプランニング作法」だとか

「どこにもないアイディアの出し方」だとかを

血眼になって探すよりも前に、その情報・概念・指南が

どのようなメリットをもたらすかを想像するチカラを

養った方が、一見遠回りのように見えて実は近道、なのか?



いやしかし、未見の情報・概念・指南について得れうべきメリットを

正確に把握・予想・予見するなんてことは不可能だ。

人間は神様じゃないんだから。

それに、内田樹先生に従えば、

「武道を学ぼうと師匠を選ぶ時、どの師匠につけば手っ取り早く一人前に

 なれるかを考えるなんてムダだ。だって正解なんてやってみなければ

 分からないんだから。むしろある技芸を習得するために師匠を選んだ時、

 そこで一心に努力していく過程で逆説的に、かつ遡及的にその師匠の教えに

 学びが生まれるのである」(内容はうろ覚え、感想ブログとかをご参照あれ

 であるからして、とにかく挑戦するしかないというのもまた一理ある。



で、“とにかくまず習え派”と“冷静にベネフィットを予想しろ派”の争いは、

例によって例のごとく決着がつかぬまま、ただただ時間が過ぎていく。

ムダに。

そんなこと考えてる暇があるなら本の一冊でも読めよ、

というオチ。

それじゃ。

はいどうも、

自分が思っている以上に自分は子どもだった、

使用上の注意です。

連綿と続いている己の人生をある一点一点で切り取ったとして、

数限りなく繰り返されてきたその点と点を改めて神の視座から見つめ直すに、

数十年の昔からあんまり変わってねぇなぁ、俺って。

突然何を言い出すのかと訝しがる向きも大いにあるだろうが、

詳細は当然のように黙秘するとして。

とにかく、32歳の良い年した大人(おっさんともいう)が

自らの人生を振り返ってみて成長の痕跡を認められなかったという悲しいお話。



この世におぎゃあと生まれてきた瞬間、

人間は「快」と「不快」の二元論に支配されるという。

母体の柔らかで温かな愛を感じることが「快」とすれば、

飢えや寒さ・不安な感じを「不快」とする。

赤子と総称される彼らの中で、自らの意思表示はその二種に集約される、らしい。

「快」であれば満面の笑みをたたえて健やかな寝息を立てていれば良く、

「不快」であればノドを千切らんばかりの大声で泣き喚けば良い。

なんとも良いご身分ですな、赤子ってやつは。

浮世の由無し事から生じる瑣末な、しかし重大なストレスも知らず、

明日の食事さえままならぬ貧乏暮らしの不安も知らず、

ただ己の「快」と「不快」に従い笑って寝て泣いて喚いて。

まぁここで赤子に許された特権を羨んでみても詮のないことである。

それが赤子であり、逆にそれが故に赤子は赤子として遇されるのだから。

そしてそんな乳児も幼児を経て長ずるに、

やがて大人にならざるを得ないのだから。



ところが、困ったことにこの“大人”という概念がまたややこしい。

生物学的(あるいは肉体的)な大人という意味では16~22歳頃が

ピークであると言われているし、心理学的な(あるいは考え方という意味での)

大人といえば明確にいつからという線引きなど不可能に近い。

ただ、ひとつ言えるのは社会的に(あるいは世間的に)大人と言われるのは

20年の年月を重ねた個体であり、それ以降は(程度の差や属している

コミュニティの慣習の差こそあれ)「子どもである」という言い訳は通じない。

たとえどんなに未熟な思考回路を有していようとも、

たとえどんなに幼稚な価値観を擁していようとも、

もはや彼または彼女は子どもとして扱われることなく、

一個の独立した生物存在(つまり大人)として扱われる。

そのとき、内面的な意味で大人になりきれていなくても

外面的に大人として扱われる以上、大人として振舞わざるを得ないのであって。

ある意味ある個体が大人かどうかというのは本人の意識や肉体的・

精神的成熟度合いとは無関係に決定づけられる。



と、そのように考えると社会的な意味での「大人と見られる自分」と、

自己認識上の「大人としての自分」に齟齬なり乖離なりが生じるわけで。

どうやら、まだまだ「快」を求め「不快」を厭う子どもなんだなぁ、俺って。

ふむ、だからどうしたっていう話なんだけれども、

どうせ俺なんて大人になりきれない大人なんだから

大人げなく結論を放り投げてしまいたい。

何となくそんな感じ。

反省。

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