新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

初めまして。
しがないクリエイティブ・ディレクターをいつの間にか卒業し、
しがない広報マンにジョブチェンジした使用上の注意と申します。
しがない駄文を書き連ねては日頃の憂さを発散更新しておりますので、
御用とお急ぎではない方はお誘い合わせの上、反転離脱されたし。
曰く「我ニ追イツク敵機ナシ」。

はいどうも、

過去に書いた「虚無感に対する正しくない対処法」が

やたらとアクセスを集めていることに狼狽中、

使用上の注意です。

例によって例のごとく特に内容のない内容を

クレープのごとく薄く広く伸ばして文章量を稼いだ

しょうもないエントリなのに、だ。

つまるところ

虚無感は暇な時にやってくる。

 やる気のない状態は仕事の締め切りが迫れば解消される。

 従って虚無感を解消するには仕事に追われるしかない。

 でもそんな人生は嫌だなぁ。


としか言ってないエントリなのに、だ。

一体どういう風の吹き回しなのか。



思うに、「虚無感」で検索する人が多いのだろう。

と思って「虚無感」でググってみたが、一向にこのブログはヒットしない。

世間では自分が思ってる以上に虚無感に悩む子羊が多いのかと

この俺の純粋で脆いハートを悩ませてみたが、そうではないのか。

それなら一安心と思いきや。

「虚無感 対処法」でググってみたら5位にヒットぉぉぉぉ!!

そうかそうか、みんな悩んでいるんだね。

何をする気にもなれない、食事でさえ億劫なのに仕事なんてもってのほか、

叶うことなら何もせず点滴に我が身を委ね思う存分寝て暮らしたい。

しかし、現実はさにあらず。

嫌な上司に嫌な同僚嫌な部下、嫌な客から嫌な取引先、嫌な仕事に嫌な付き合い。

無限大に浮かんでは消える泡沫のように“イヤなこと”を抱える毎日…。

そりゃぁ虚無感にも襲われるでしょうよ。



で、そういう心にダメージを背負った迷える子羊たちに

使用上の注意ことオレはどんなアドバイスを送ったのか…。

虚無感を解消するには仕事に追われるしかない。(前掲参照)」。

う~ん、救いようのない結論。

誰に何の救いをももたらさない無慈悲な現実。

繊細なハートにぱっくりと口を開いた傷口に塩をすり込む冷酷な行為。

使用上の注意ことオレは、なんと冷血な人間なのだろうか。。。

おぉ、我がことながら恐ろしい。

使用上の注意、恐ろしい子っっっっ!!



だが、ちょっと待って欲しい。

オレだってちゃんとウォーニングを発している。

そのエントリは虚無感を決して解消してはくれないと、

どれだけ読み込んでもアナタの傷を癒すことはないと、

アクセスするだけ時間の無駄でしかないと、

きっちり宣言しているではないか。

虚無感に対する“正しくない”対処法。」(ダブルクォーテーション筆者)って。



インターネットは玉石混交。

玉と輝く救いの欠片あれば、石と転がる駄文あり。

汝、騙されることなかれ。

汝、心落とすことなかれ。

汝、タイトルを見落とすことなかれ。

信ぜよ、されば救われる。

アーメン。

はいどうも、

たまぁに思うわけですよ、

「オレの人生、これで良いのかね?」って、

使用上の注意です。

まぁ考えたところでタイムマシーンも若返り薬も発明されていない現代では

全く意味も意義も必要性もない思考実験なんだが、

それでもふと思うときがあるわけで。



ベタに「あの時こうしておけば」とか「もっとこうできたはず」とか、

そういう後悔系の袋小路にさまよいこむこともあるし、

「これからこうしていこう」とか「次はこうしよう」とかの

前向き系未来予想図を描くこともある。

ただ、いずれにせよ人生は一寸先でさえ闇らしい。

目の前に広がる景色も結局は一瞬の陽炎に過ぎず、

次の刹那には180°異なる色になることさえあるのであって。

考えても考えても答えなんてないし答え合わせだってできない。

何となく「これで良かったんだろうなぁ」とか

「やっぱ失敗したなぁ」とかいう後の祭り系後悔しか能のないワタシ。



じゃぁどうしろと?

と、聞いてみても返事があるわけでもなく、

ただ一人誰もいない部屋でぼんやりと虚空を眺めるしかない。

だって、正解が分からんのだから。

いや、正解が欲しいわけではないんだけど、

少なくとも後悔のない人生を送りたい。

が、どう生きてみても後悔は泉のようにこんこんと湧き出てくるわけで。



あと、「取り返しのつかない失敗」ってのはよく聞くフレーズだけど、

人生が不可逆な時間の連なりである以上

全ての失敗はもはや取り返し不能、と言えなくもない。

挽回も原状回復もリカバリも、結局は過去のマイナスを何とかして

ゼロ以上にしようと労力を傾注した結果でしかなく、

本来であればその労力はより多くのプラスを得るために

注ぎ込まれるはずのエネルギーだったんだから、

その時点でオレの人生のトータル・ベネフィットは減少せざるを得ない。

そう考えたら(金銭的・非金銭的問わず)人生の収益的には

失敗をしないに越したことはない、でしょ。



たまぁに、「失敗のない人生はツマラナイ」とのたまう輩に出くわして、

そのたびに心のなかで密かに思う。

「んなわけないじゃん」って。

たとえツマラナイと謗られようが失敗のない人生では

損失に対するリカバリが不要なのであるから、

全てのリソースをポジティブなベクトルでチャレンジに費やせるわけで、

そんな人生は右肩上がりじゃないか。

当然、失敗するのが怖くて何も決めない動かない進まないのは愚の骨頂だと思う。

でも「失敗を恐れない挑戦」と、「やむを得ない失敗の肯定」とでは、

大きな違いがある、はずなのよ。



…。



まぁアレだ、何となく後悔について書き始めたのに

満足なオチもつけられずに終わってしまう時点で、

失敗してんだよ、オレは、きっと。

いや~、取り返しのつかない失敗をしてしまった。

それじゃ。

はいどうも、

“愛”なんていう面倒臭いテーマはそろそろ終わらせたい、

使用上の注意です。

どう書いても結局万人の理解は得られないし、

どう考えても人それぞれだから。

まぁそうは言っても自分で始めたエントリだし、

何とか無理矢理にでも終わらせるべく頑張る。



↓↓↓ここから前回までのあらすじ↓↓↓

■第1回

昔の使用上の注意=愛情表現=関係性メンテナンス要素

∵オレからの愛情を疑う女子への対処法の一つ

■第2回

愛情表現=メンテナンスツール

∴愛という感情に対する考察を怠る

+アガペーとか言われてもピンと来ない

∴好み→好き→愛、という浅い理解のまま生きるオレ

→ところが、仕事上“愛”を考えるはめに!

↑↑↑ここまで前回までのあらすじ↑↑↑



正直、商談で「ウチの会社は“愛”を育みたいんです」とか言われても

心のなかでは「?」が乱舞してしまっていた。

「愛ってのは要するに好きの延長だから、え?恋愛を広めるの?」

とか、激しく的外れかつ失礼な思考を繰り広げていたわけである。

もちろんその会社の意図する“愛”とはそんな俗っぽい哲学ではなく、

まさにギリシアの哲人たちが日夜議論を戦わせた(想像)

本来的で根源的な意味での“愛”であって、愛欲とか性愛とかではない。

ただ、分からないで済ませられないのがプロフェッショナルな社会人。

何とか自分なりにクライアントの言う“愛”を理解して、

それを踏まえたコンセプトを打ち立てねばならん、雄々しく、猛々しく。

少なくとも、愛=好きの延長、好きの強化ver.とかいう

中二的思考からは一刻も早く脱却しなければならない状況ですよ。



三十路を過ぎて尚、中二レベルで思考が止まっていた自分を恥じる暇もなく、

必死こいてイロイロと調べてみるに、ひとつの答えへたどり着いた。

何を調べていたのかや、どういう経路を辿って結論へ至ったのかは、

この際良いじゃない。だって説明するのが面倒臭い。

とにかく、今ここに、オレの辞書はアップデートされた。

恋だの愛だのに悩む健全なる青少年諸君。

つい最近まで諸君らと同じ地平で苦しみもがいていたこのオレが、

迷える子羊たる君たちに啓示を与えよう。

愛とは、愛してるとは、こういうことだ!!



愛とは…いつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。

これよ、これ。

ヤりたいとか抱きたいとか、そういう下劣な妄執からは早く超越したまえ。

欲望とか欲求とか低次元なリビドーから己を解放するのだ。

そして君たちのそばにいる人たちを大切に思えたなら、

それが“愛”なのだ!!(ドヤァ



え?ここまで大上段に構えながら長々と引っ張って、

オチはWikipediaかよって?

汝、使用上の注意を許し給え。

汝、使用上の注意を愛し給え。

さすれば未来は開かれる救われる解き放たれる。

アーメン。

はいどうも、

どうやら最近これまで以上に筆が進んでしまうらしい、

使用上の注意です。

しかも、無駄に。

言いたいことを簡潔に、結論から先に、シンプルな論旨と言葉で言いなさい。

昔から色んな人に注意されたなぁ(テヘッ)。

でも気にしない。



↓↓↓ここから前回のあらすじ↓↓↓

使用上の注意=恋愛経験それなり

but 愛情表現は少なかった

→むしろ愛情表現=関係性メンテナンス要素

∵オレからの愛情を疑う女子への対処法の一つ

↑↑↑ここまで前回のあらすじ↑↑↑



で、もう少し“愛情表現=メンテナンスツール”論を掘り下げる。

オレの中で「好きだ」とか「大切だ」とか「愛してる」とか、

それに類する一切の愛情表現キーワードは

大抵の場合機嫌を損ねたパートナーに対する関係修復ツールでしかなく、

相手への親愛の情を表現する本来的な使い方をしていなかった。

となると当然、オレの脳裏では“愛情表現=極めて便利なツール”

としてしか位置づけられず、様々な愛情表現ワードの意味や意義を

探求する動機も理由もきっかけも必要性も生じないのであるから、

特に深く考えず「今言えば機嫌が直るだろ」ぐらいの気持ちで表現していたわけよ。

結果、「特定の他者を好きだと思うのはどういうことか」

「ある他者が自分にとって大切な存在であるというのはどういう意味を持つのか」

「誰かを愛するというのはどういう心の移り変わりなのか」

なんてのは考えずに生きてきた。



あと、高校時代の倫理の授業でアガペー(無償の愛)とかを学んだこともあったが、

宗教と極地的距離を隔てた生活を送っているオレとしては、

「あがぺーナニソレ美味シイノ?」状態で、

見返りを求めない奉仕の気持ち、ぐらいの理解でしかなく。

それよりも愛欲とか性愛についての参考画像はないのかよ、

ぐらいに思ってました。

すまんね、西口先生(倫理担当教師)。

何にせよ顔が好みで一緒にいて楽しければ「何か良いな」で、

それ以上に一緒にいたいと思えれば「好き」で、

失いたくないと思うようになれば「大切だ」で、

「愛してる」なんてのもその延長線だろ?的な浅い理解で、

幾人かの女子とくっついたり離れたり傷つけたり傷つけられたり。

そんな青春期を過ごしていたわけですね、オレは。



ところが、ひょんなきっかけで“愛”について

考えるきっかけが生じたから困った。

まぁ恋愛がきっかけではなく、

“愛”を掲げる企業さんに仕事で出会ったことがその理由なんだけれども。

ともあれ、恐らく人生で生まれて初めてに近いレベルで、

「愛」について考えてみたら何とまぁ。



またしても紙面の都合で失礼する。

ちなみに、吾輩は無計画男である。

オチはまだない。

それじゃ。

はいどうも、

ネタに困ったときは自分の恥ずかしい過去を切り売りしてしのぐ、

使用上の注意です。

じゃぁわざわざブログなんて書かなくても…、

なんていう思いもしないではないが、

それ以上に自己顕示欲が強いのでこうなる。

そして、自分の社会的評価がどんどん下がるのを

唇噛み締めながら見守るのがお約束のルーティン。

どんなに恥辱にまみれようと抑えきれない自己顕示欲に任せて、

今日は柄にもないことを考えてみたので

開陳してみようと思う、柄にもなく惜しげもなく臆面もなく。



まず、前提として使用上の注意ことオレは、

それなりに恋愛経験を積んでいるという点を頭に入れてもらいたい。

あれほど“人並み”を嫌うオレもはやり人の子。

人並みに恋をして、人並みに失恋し、人並みに成就して、

人並みに恋愛経験を重ねてきている、はず。

で、32歳という節目でも何でもない年齢の今、

改めて過去の恋愛経験を点検してみるに、

その時どきのパートナーに対する愛情表現の類が少なかったように思う。

というよりも、愛情表現という名を借りて二人の関係性をメンテナンスする、

ぐらいの意識でいた、確か。



つまりどういうことか。

年頃の女子というやつはピサの斜塔も真っ青なほど不安定であって、

いや、むしろ傾きながらも物理的平穏を保っている

ピサのひねくれタワーの方が数億倍も安定しているだろう。

とにかく、付き合って間もない頃ならまだしも、

数ヶ月を経ようもんなら「本当に私のこと好きなのかしら?」

とかいう面倒臭い可憐な乙女心に翻弄されてしまう、本人が。

まぁそういう疑問を抱かせるに至ったのは

普段ほとんど自分から連絡をしなかったり

平気で他の女の子と遊びに行ったりしていたオレにも

原因の一端があることは否めない。

いや、まぁほとんどの原因はオレに帰責するんだろうけど

この際そういう批判的意見は一切黙殺するので悪しからず。



とにかくまぁ不安に駆られる訳ですよ、彼女たちは。

そういう時、男子諸君はどのように対処すべきか。

これはもう先人たちの累々たる屍の上に燦然と輝く、

我慢とか忍耐とか受容とか無我とか、

そういう類の概念の中に確かな答えがすでにある。

平たく言えば

『我慢して愚痴を聞いて共感して(るフリをして)最後に「好きだよ」』。

これに尽きる(ゲス顔)。



と同時に、紙面が尽きたのでちょっと失礼。

また会おう、恋に悩む青少年よ。

それじゃ。

はいどうも、

書き始めると意外と長くなって1回で終わらなくなった

使用上の注意です。

どうもオレの文章には無駄な修飾と寄り道が多い。

ま、それも良いじゃない。

にんげんだもの。



と、ミニマリストの故・ジョブズあたりに半日ぐらい鬼のように詰められそうな

無駄バンザイ論者な自分をさらけ出しながら、前回の続き。

前回のおさらい

人生なんて悩みだらけ→年を追うにつれて悩みは深くなる

+社会人は悩みと仕事に追われてしまう

→それが続くと思考停止の危険性がある。

=それはマズい。

ここまでが前回



で、人間はその思考を停止した瞬間から適応機制が働くのであるから、

どうしようもない現状でさえそれはそれとして受け入れてしまう。

そして一旦受容された現実は心的内奥世界において徐々に固く硬化し、

いつしか変容不可能な絶対の法則として彼または彼女にのしかかる。

だからマズい。

そうなってしまえば今ある現実を前提とした思考しか許されず、

結局ドラスティックかつ根本的・本質的な問題の解決は手に入らない。

しかも、未来永劫。

「まぁ確かに不満はあるけど今の生活はそれなりに幸せだから良いや」とか、

「考えても前に進まないならとにかく今ある材料で何とかしよう」とか、

「そもそもいつまでもそんなことで悩む年じゃないし」とか、

一見分別のついた“大人の意見”に支配されてしまう。

それが良いか悪いかの判断は人それぞれだけれども、

少なくともそれは“見て見ぬ振り”の要素を孕んでいる。



いや、分かるよ。

大人ならどうしようもない現実と上手く折り合いをつけながら、

許された選択肢の中からベストなものを選び、

許された手段を上手く活用して120%の結果を出し続けるべきだ。

っていう至極まっとうな正論はよく分かる。

でも、やっぱり心のどっかで何かがうっすらと引っかかるわけよ。

それって現実に手足を縛られてるだけじゃん、とか、

それって現存する問題に正面からぶつかるのを避けてるだけじゃん、とか、

それって人生の諸問題を解決できない自分の醜態を糊塗してるだけじゃん、とか。

そういう青臭い気持ちが“まだ”オレの中にはある、ようなないような。



とは言え、「大人になんてなりたくない!」とかいう非現実的なことを

言いたいんじゃないし、「大人になれよ」とかいう非常に現実的な

ソリューションを強制したいわけでもない。

最終的に、詰まるところ、終局的には、バランスだと思うのね。

純粋なパッションを持ち続けながら、老獪なエクスキューズを重ねる舵取り。

それがやっぱり一番ベターな選択なんじゃなかろうかと。

まぁ、悩みに対して情熱を忘れず唯々諾々と現実を受け入れまい、

という決意を綴ろうと思っていたのに

いつの間にか“大人の結論”に落ち着いてしまっている事実なんて、

見て見ぬ振りだ!!

それじゃ。

はいどうも、

イロイロ悩むお年ごろ、

使用上の注意です。

とか何とか言いつつ、数年前から常にイロイロ悩んでる気がしないではないし、

そもそも悩まずにいられた時間なんてこれまでの人生で

どれほどあったのかと聞かれればすこぶる微妙。

大体の時間を深い思惟と思索と思考に費やしてきたあてくしとしては、

悩みというのはお年ごろではなくもはや生き様。

生きるとは、悩むことと見つけたり、的な?



ただ、悩みの質は歳を重ねるごとに変わっているような気がしないでもない。

薄紅色の頬を無防備に晒していたあの頃の悩みといえば、

好物のきんぴらごぼうを食事の冒頭で食べるのか最後に食べるのか、とか、

下校時に見つけた手頃な小石を蹴って帰るべきか帰らざるべきか、とか、

目の前の登り坂で自転車から降りて押すべきか立ち漕ぎで行くべきか、とか、

とかく近視眼的で表層的で表面的な悩みでしかなかった。

それがまぁ長ずるにつれ段々と悩みは深くなる。

好きなあの子に話しかけるべきか素通りするべきか、とか、

進学に際しては普通科に進むべきか工業科に進むべきか、とか、

親友Aと親友Bがケンカしたときはどのように振る舞うべきか、とか、

(常人より遅れがちだとは自分でも思うけど)それなりに悩んできた。



そして今。

改めて悩む。

深く、深く悩みの泥沼に沈み込んでいる。



何に悩んでいるかはまぁ黙秘するとして、

とにかく悩みというやつは次から次へと襲い来るのであって、

そうした悩みたちと戦う勇猛果敢なオレには休息さえ許されぬ。

と同時に、宮仕えのサラリーマンとしては休みなく途切れなく迫り来る

締め切りとも戦わなければならんのであるからして、

悩みに対する解決の糸口を見つける余裕を見つける余裕から探さねばならんのだ。

考える余裕を見つけるための余裕、を見つけるための余裕、を(以下ループ

とか何とか言いながら、“悩み”と“仕事”という2正面作戦を強いられ続けると、

論理必然的に脳内回路がスパークしてショートしてブレイクすることになる。

「悩み→(´・ω・`)←仕事」からの、「オレ\(^o^)/オワタ」状態。

これはマズい、非常にマズい。



何がマズいってアナタ、

続きはまた次回。

それじゃ。

はいどうも、

当たり前すぎて今更なことを

さも自分が発見した真理のようにドヤ顔で吹聴するクセがある、

使用上の注意です。

今日はそんな愚かな男の愚かな思考の話。



ふと気づくと、もう32年の歳月をこの世で過ごしていた。

愛と勇気がいた覚えはトンとないがそれなりの友人たちに恵まれ、

人生を導く恩師にも出会い唆され有難い示唆を受け、

時として果てしない遠回りを繰り返しながらも、

何とかまっとうに“人並みの”人生を過ごしてきた、はず。

もちろん社会的地位とか名誉とかとは縁遠い生活で、

それどころか大金にも金塊にも有価証券にも恵まれない

困窮生活を送ってはいる、が。

まぁ上を見ればキリがないのと同じで、

下を見ても恐怖で慄くしかないのであって、

凡庸というのは実は至極難易度の高い結論かも知れない。

そう考えればかなり難易度の高いハードルを次々とクリアした結果が、

この”普通(よりちょっと下な気もするが)の生活”に他ならず。

世の大多数を占めるパンピー、

いわゆる一般ピープルの一人として若人に一言申し上げたい。



『時間は本当に矢のように過ぎる』。



まぁイマドキの若い人たちに向かって”矢のように”とか言った所で、

ごく少数の弓道あるいはアーチェリー経験者にしか実感をもって伝わらん。

ただ、そのごく少数の弓道経験者の一人としては、

「いや、マジで矢の如くよ」

って言いたい。

30kgぐらいの和弓で射られた矢、なんすよ、ほんと。

うん、余計に分かりづらいか。

それはまぁさておき、とにかく時間はあっという間に過ぎる、

ということが言いたい。

いつまでも青春は続かない。

いつまでも親はいない。

いつまでも学生という身分は続かない。

いつまでも保護者はいない。

いつまでも(  )。

 ※( )内には好きな言葉を入れるが良いよ。



で、それはまぁ今更動かしがたい世の真理であって、

今更俺が声を大にして言うまでもない自然の摂理であるからして、

ポイントは”時間が過ぎるのは早い”という原理に対して

どのような態度をもって臨むべきかという話になるわけだ。

「時間が早いって言ってもなるようになるし、なるようにしかならんさ」

とかいう悟りの境地に至ったならば、

そっとブラウザを閉じてこの場を立ち去れい!!

ただ、「え?この時間って永遠じゃないの?そんなにすぐ終わるの?」

的な不安と不信とがむっくりと頭をもたげたならば、

次から述べる人生の先輩の金言に耳を傾けるが良い。

気づけば本当に”あっ”という間に過ぎる時間を前にして、

人はどう振る舞うべきか。

どう生きるべきか。

どう動くべきか。



『思ったことは思ったときにやれ』



以上。

ドヤァッ!(ドヤ顔)。

それじゃ。

はいどうも、

今の自分はどのぐらい前までの自分になら誇れるのだろうか、

という分かりにくい疑問に囚われている、

使用上の注意です。

うら若き紅顔の少年だったあの頃の俺に、

今の俺は胸を張って「すごいだろ」って言えるのか?

みたいな疑問がふと、突然、降って湧いたワケだ、唐突に。



少なくとも今の今、この瞬間の自分は多分、

小学生の俺に対して面と向かって己を誇ることなんてできない、多分。

当時の俺は自分に対する期待度が高すぎる。

末は博士か大臣かともて囃された俺が、

まさか日々の食い扶持にも困るワープア一歩手前の

生活に苦しむことになるなんて、、、知れば卒倒するかも知れん。

今にも折れそうな程細い両の足は自らの重みを支えることさえできず、

崩れ落ちる俺@小学生。

確かにその光景は涙を誘うかも知れんが、自尊心は粉微塵である。

いかんいかん、小学生の俺にはシゲキが強すぎる。

もう少し長じて、現実の何とやらを理解した頃の俺でなければ、

今の俺の惨状に耐え切れん。



中学生?いかん、まだまだ夢見る夢男だった。

高校生?ダメだ、恥ずかしげもなく青臭いドリーマーだった。

大学生?う~ん、少しだけ現実が見え始めた年頃か。

自分が何者にもなれないかも知れない、

という可能性をほのかに感じ始めた時代だ。

ひょっとして、俺なんて生き物は主人公メカの軽いヒト薙ぎに

あっけなく撃破される敵の雑魚キャラ程度のものなのか?

夢に向かって目を輝かせ、努力という全力疾走を怠らないアイツは、

いつか一廉の人物になるんだろう。

翻って俺はどうだ…?

絵に描いたような堕落学生の俺は…?

的に自己嫌悪と自責の念に駆られ続けた大学時代の俺になら、

今の俺を誇れるかも知れん。

何せ生物としての生命力も気迫も精神力も超絶低空飛行だったし。



いや、ちょっと待て。

将来に対して悲観的な心持ちで日々悲嘆にくれていたあの頃の俺に、

今の俺の現状と現実を包み隠さず詳らかにしたとした、、、ら?

最後に残された自爆用のヒットポイントさえ消し飛びかねん。

そして残された道は、大学中退→引きこもり→ニートというダメルート。

当時の俺に必要なのは

「そんなことないよ、人並みの幸せならお前も頑張ればなんとかなる」

というぐらいの慰みであり労りであり、労いであろう。

それがいかほどの有用性を持っているにせよ、いないにせよ。

おかしい。

目に余る逆風が吹きすさぶ今の俺に少しでも自信を取り戻させたくて、

かと言って誇れる相手もいないから過去の俺に今の俺を誇ろうとしたのに、

何時まで経っても自信を取り戻せる相手がいない。

これはアレか?米軍の罠?(んなわきゃない)



とにかく、この際埃まみれでも構わん。

哀れな俺に、誇りを───。

誇りを求めて去る。

それじゃ。

はいどうも、

何をしても上手くいかないときは気長に寝ていたい、

使用上の注意です。

もうアレよ、何かしてもどうせ裏目に出るんだから、

何もせず寝ながら果報を待とうっていう魂胆。

ただ、そうは問屋が卸すわけもなく。

結局は目の前の案件やら義務やら作業に追われざるを得ず、

結局何かをしなければならない。

それが小市民たるサラリーマンの努めであり勤めであり。

待てば海路の日和があるというよりは、

解雇の通知がありそうな気がする現代社会。

ここまで生きるのが辛いとは思わなかった。



「何のこれしき」って開き直ったり

逆境をバネにこれまで以上のチカラを発揮したり、

猫を噛む追い込まれたネズミのように強靭なメンタルが

この身に宿っていればどんなに良かったか。

襲い来るトラブルをもう、千切っては投げ千切っては投げ。

それなんて言うサラリーマン無双?って感じのスーパーマン。

しかしまぁ現実はやっぱりサラリーマン夢想でしかなく、

重く冷たく強大な現実の前には為す術もなくただただ立ち尽くす、

ことさえ許されず次々と訪れる締め切りやら提出期限やらに追われるしかない。

でもって、とにかく遮二無に我武者羅に脇目も振らず

一心不乱に取り組んでいればいつか事態が好転するかと思いきや、

必ずしもハッピーエンドを迎えるとも限らず。

もっとネガティブに未来をイメージしてみれば

激務に身も心も破壊されて退職→引きこもり→ニート

というダメな黄金ルートに乗る可能性さえ否定はできない。

高所まで引き上げられた我が身の持つ位置エネルギーを、

人生の転落という運動エネルギーに変換するのはいとも容易い選択。

意図するにせよしないにせよ、堕ちるときはあっという間なのだから。



そう考えればよくもまぁ32年と少し、

大きく道を外れることもなくここまでやってこれたもんだと

全く強さも靭やかさも備えさせてくれなかったけれど、

極端に弱いわけでもない体と心を授けてくれた

親に感謝の念が湧き起こっても不思議ではない。

が、今はそれ以上に現実から背を向けず目を逸らさず

何とか逃げずに踏ん張ってきた自分の頑張りを褒めてやりたい。

この苦境が一体いつまで続くのか知る由もないし

知った所でパワーが湧き出るほど単純単細胞でもないオレとしては、

何とか日々を生きるだけの活力を自己憐憫と自己満足と

自己中心的思考で何とか生み出すしかないのであって。

この世に生きる自信を失うということはつまり人生の方位磁針を失うことであり、

自身のアイデンティティを破壊し尽くす程の地震に見舞われるしかなく、

必死で最悪の事態を回避すべくジグザグ行動で走り続けるだけ。



オレという人生の責任者でもあるオレとしては、

総員退艦を命じた所で船と命運を共にするしかないのだから、

最後まで艦長としてあがくしかない。

あぁ、自沈弁でも開こうかしら。

それじゃ。

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