はいどうも、
この年齢になって“年末進行”という言葉の、
本当の意味を知った、
使用上の注意です。
腐れやべぇ。
という訳で本日の戯言は「幸福論。」。
幸福とは、欲求が充足される事で不安や不足を感じずに、
安心を抱く心理状態を指す。
つまり幸福には何らかの欲求と、
それが充足されて不安を感じない状態が必要だという事だ。
「問題提起」
では、己が望む結果を得る為に、
既に存在する他者の関係性を破壊した上で
自分という存在を付着させて目的を達成した場合、、
それが生み出すのは幸福か、不幸か。
自分の望んだ他者との関係性を手に入れる事から、
第一義的には欲求の充足が果たされた状態といえる。
が、その副産物として当該他者の既存関係性に変化を強制し、
最悪の場合そのコミュニティからの疎外を導いたとして、
それは果たして幸福と言えるだろうか。
男女混成の集団Aが存在したとして、
そこに所属する女A1を手に入れるため
自我Bを組み込ませた場合。
集団Aの構成員A2?Anから女A1と自我Bの
孤立・疎外を招いたとして、それは幸福なのだろうか。
一旦論点を変える。
「幸福を感じるべき“自分”とは何か」
ここで、“自分である”と認識する能力そのものを
“自分”だと仮に定義した場合、
“自分”という概念がどこからどこまでを指すのか。
自分と他者を分ける境界線はどこにあるのか。
同じ“赤”という色素が人に依って
紅色であったり小豆色であったりするように、
所詮人は己の目と耳と鼻と、
肌と感情でしか世界を捉まえられぬ生き物であり、
従って人は、自分という心象世界において、
現実世界を再現・理解しているに過ぎない。
つまり、“誰かを不幸にする”という概念自体が、
彼若しくは彼女の内心に於いてしか存在し得ず、
その結果彼(彼女)が幸・不幸を感じるかどうかも
純粋に彼自身(彼女自身)へと帰結する。
依って幸と不幸の量的変化を恣意的に発生させる事は可能であり、
本人の考え方次第で如何様にも変化させ得る。
一見“他者の影響”を大きく受けそうな人の幸福感も、
それが妥当か否かは別として、
終局的には『純粋自己問題』と解釈できる。
幸福とは、彼(彼女)自身の問題だと言えるのだ。
「振り返りつつ問題提起に戻る」
心象世界の中で再現された現実世界と、
個々人の深奥で多重的・重層的に入り組んだ思考のベクトルと次元。
それらの不連続面全てに於いて、自分自身が
欲求の充足度評価をした結果が幸福の総体である。
人の幸不幸はその瞬間瞬間の状況、
他者との関係性に依って生じる感情であるが、
その全てが“自分”という制御可能な世界の事象である。
現実世界ですら、捉え方・解釈に依って
自分が望む世界に変え得る力を持つ“自分”が、
結果の評価者でもあるからだ。
これがここまでの結論。
そう考えた時、最初に掲げた問題はどう解するか。
誰かを傷付ける事で得た幸福は、
誰かを守る事で得た不幸と比して、どちらが幸せなのか。
正解は、『どちらも幸福』であり、
『どちらも不幸』である。
何がどう変化・変容しようとも、
“自分”という精神的存在が続く限りその評価は
幾らでも補正する事が出来るのだ。
とはいえ、それは飽くまでも自己の内部世界に於ける
解釈論であるから、社会的評価や他者との関係性をも
保証するものではない事を、書き留めておく。
「偶然生まれた思考の産物」
心象世界という現実を創造するワールドクリエイター。
その世界で起きる森羅万象に関係するプレイヤー。
そしてそれら全てを監視し評価するオブザーバー。
これら全てを兼ねる全知全能の神は誰か。
それは“自分”である、という結論に落ち着いた。
つまり、人は誰しもその内心世界に於いては、神なのだ。
であるからこそ、人は自分が思う通りに動き、
望むと望まざるとに関係なく結果を手に入れる。
それが望んだ結果であろうとなかろうと、だ。
その都度“補正”を入れて、人は動き、
時は進み地球は回る。
(;゚д゚)ァ....
仕事しなきゃ…。
それじゃ(#゚Д゚)/~~
この年齢になって“年末進行”という言葉の、
本当の意味を知った、
使用上の注意です。
腐れやべぇ。
という訳で本日の戯言は「幸福論。」。
幸福とは、欲求が充足される事で不安や不足を感じずに、
安心を抱く心理状態を指す。
つまり幸福には何らかの欲求と、
それが充足されて不安を感じない状態が必要だという事だ。
「問題提起」
では、己が望む結果を得る為に、
既に存在する他者の関係性を破壊した上で
自分という存在を付着させて目的を達成した場合、、
それが生み出すのは幸福か、不幸か。
自分の望んだ他者との関係性を手に入れる事から、
第一義的には欲求の充足が果たされた状態といえる。
が、その副産物として当該他者の既存関係性に変化を強制し、
最悪の場合そのコミュニティからの疎外を導いたとして、
それは果たして幸福と言えるだろうか。
男女混成の集団Aが存在したとして、
そこに所属する女A1を手に入れるため
自我Bを組み込ませた場合。
集団Aの構成員A2?Anから女A1と自我Bの
孤立・疎外を招いたとして、それは幸福なのだろうか。
一旦論点を変える。
「幸福を感じるべき“自分”とは何か」
ここで、“自分である”と認識する能力そのものを
“自分”だと仮に定義した場合、
“自分”という概念がどこからどこまでを指すのか。
自分と他者を分ける境界線はどこにあるのか。
同じ“赤”という色素が人に依って
紅色であったり小豆色であったりするように、
所詮人は己の目と耳と鼻と、
肌と感情でしか世界を捉まえられぬ生き物であり、
従って人は、自分という心象世界において、
現実世界を再現・理解しているに過ぎない。
つまり、“誰かを不幸にする”という概念自体が、
彼若しくは彼女の内心に於いてしか存在し得ず、
その結果彼(彼女)が幸・不幸を感じるかどうかも
純粋に彼自身(彼女自身)へと帰結する。
依って幸と不幸の量的変化を恣意的に発生させる事は可能であり、
本人の考え方次第で如何様にも変化させ得る。
一見“他者の影響”を大きく受けそうな人の幸福感も、
それが妥当か否かは別として、
終局的には『純粋自己問題』と解釈できる。
幸福とは、彼(彼女)自身の問題だと言えるのだ。
「振り返りつつ問題提起に戻る」
心象世界の中で再現された現実世界と、
個々人の深奥で多重的・重層的に入り組んだ思考のベクトルと次元。
それらの不連続面全てに於いて、自分自身が
欲求の充足度評価をした結果が幸福の総体である。
人の幸不幸はその瞬間瞬間の状況、
他者との関係性に依って生じる感情であるが、
その全てが“自分”という制御可能な世界の事象である。
現実世界ですら、捉え方・解釈に依って
自分が望む世界に変え得る力を持つ“自分”が、
結果の評価者でもあるからだ。
これがここまでの結論。
そう考えた時、最初に掲げた問題はどう解するか。
誰かを傷付ける事で得た幸福は、
誰かを守る事で得た不幸と比して、どちらが幸せなのか。
正解は、『どちらも幸福』であり、
『どちらも不幸』である。
何がどう変化・変容しようとも、
“自分”という精神的存在が続く限りその評価は
幾らでも補正する事が出来るのだ。
とはいえ、それは飽くまでも自己の内部世界に於ける
解釈論であるから、社会的評価や他者との関係性をも
保証するものではない事を、書き留めておく。
「偶然生まれた思考の産物」
心象世界という現実を創造するワールドクリエイター。
その世界で起きる森羅万象に関係するプレイヤー。
そしてそれら全てを監視し評価するオブザーバー。
これら全てを兼ねる全知全能の神は誰か。
それは“自分”である、という結論に落ち着いた。
つまり、人は誰しもその内心世界に於いては、神なのだ。
であるからこそ、人は自分が思う通りに動き、
望むと望まざるとに関係なく結果を手に入れる。
それが望んだ結果であろうとなかろうと、だ。
その都度“補正”を入れて、人は動き、
時は進み地球は回る。
(;゚д゚)ァ....
仕事しなきゃ…。
それじゃ(#゚Д゚)/~~