新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

2010年09月

はいどうも、

タイムラインから消え、

寝たと見せかけて実は起きている、

使用上の注意です。

うん、何の意味もない。

久し振りにあいぽんのバッテリーを

使い切ろうとしてるのであった。

んで、昼寝のし過ぎから全く眠気が襲来せず。

第一種戦闘配置で臨戦体制を整えていたのに、

肝心の敵=睡魔が来なければ

何の意味もない。



とっくの昔に嫁は眠りに落ち、

かといって日頃自由に見られない秘蔵の

お宝を鑑賞する元気もない。

仕事をするにも遅過ぎて、

ゲームをするにもやる気が出ず、

さりとて読書をするほどの余力もなく。

あゝ、何たる中途半端加減。



でも、こういう何をするでもない深夜の

ひと時ってあり得ないほど贅沢で。

学生時代の感覚が蘇る。

まぁそれはつまり

ただただ酸っぱい感情が

この胸一杯に広がるコトを意味している、

に過ぎないんだけれど。。。

それもまた乙なもので。



昔はこうやって無為に時を過ごしていたもんだ。

贅沢過ぎてもったいないと感じるのは、

やはり年老いてしまったからなんだろうと、

無理やり不可抗力のせいにしてみる。

そんな微かな背徳感を漂わせていると、

感覚だけが妙に若返る。

闇夜の散歩にでも行こうかしら。

あの頃よくそうしていたように。



で、しかる後職質、と。

それじゃ。

はいどうも、

絶対的に素直さが足りていない、

使用上の注意です。

多分、扱いづらい部下No.1だと思う。



何でしょう、

素直に感情を発露するコトが

恥ずかしいコトだという明らかに間違った誤解。

男は嬉しい時も悲しい時も

その感情を出すべからず、的な

前時代的美意識。

まぁそこまで厳しくストイックに

感情を御している訳でもないのに。



特に仕事というパブリックなシーンで、

上司という評価主権者に対して、

感情を顕さない。 

ひねる。

曲げる。

隠す。

決定的に、出世できない特質。

意図している訳ではなく、

だからこそ質の悪い性質。 



直すべき欠点だというコトは

薄々気づいているのに、直らない。

直せない。

それがオレの個性だとか何とか屁理屈をつけて、

現実から目を背き続けている、という現実。

イカンなぁ、とは思いつつ。。。



どうなんだろうなぁ。

悔しいなぁ。

我が身を嘆いてみても、

その責は己に帰すという。

いやはや、現実ってのはほろ苦い。

それじゃ。 

はいどうも、

オールブラックスのHAKAを見れば

なぜかテンションが上がる、

使用上の注意です。



戦いに赴く戦士の高ぶりが、

今夜のオレを熱くする。。。

今日は、寝かさないぜ…。

微妙に間違えつつ、静かに去る。

それじゃ。 

はいどうも、

ひゃっはー、

忘れてたぜ、ブログの更新を、

使用上の注意です。

日々Twitterして仕事で文章書いて、

友だちとメールして仕事のメールして、

もう、書くコトなんてねぇよ!!

みたいな。



うん、言い訳。

それじゃ。 

はいどうも、

嫁さんがiPhone4に機種変して

非常に悔しい思いを抱えつつ、

フリック入力ができない彼女を

からかっては自我を保っている、

使用上の注意です。

えぇ、小さい男です。



それにしてもやっぱりiPhone4は良い。

動きもサクサク軽快、

画面もキラキラキレイ、

アプリも落ちずにストレスフリー。

羨ましいったらありゃしない。

あぁ、俺も早くこの残債を払い切って、

早く人間になりたぁいっ!いやもとい、

早くiPhone4にしたぁいっ!

俺だってサクサク(以下略 な

iPhone4にすれば、月曜からエンジン全開で

バリバリ仕事モードっすよ。

俺が今、この瞬間どうにももたもたしてるのは、

他ならぬiPhone3GSの能力に

原因があるとかないとか。



うん、そんな訳ない。

それじゃ。

はいどうも、

嫁さんがiPhone4に機種変して、

ちょっと嫉妬、

使用上の注意です。

どうせ俺の愛機はiPhone3GSですよ。

えぇ、メモリが足りてませんよ。

アプリケーションもしばしば落ちますよ。

最近なんて「お前は夜寝てなくて昼間突然睡魔に

襲われる例のアレか?」ってぐらいに

突然固まるよ。

くそぅ。

悔しくなんてないんだから。

羨ましくなんてないんだから。



ウソです。

それじゃ。 

はいどうも、



まるで心象風景、

使用上の注意です。

頑張るぞ~、おー。

それじゃ。

はいどうも、

幸せの閾値をもっと下げたい、

使用上の注意です。

どうにもあれだ、求めるものが多い、

つまり幸せの閾値が高いとそれだけ幸福感を抱く

チャンスが少ないわけで。

というか、あまりにも高い閾値を設定してしまうと

それこそ「俺なんて何にもない」とか思いかねん。



つまりまぁ何だ。

幸せって何だっけ?とか

幸せになりたいねん。とか

その辺の願いを叶えたければ

幸せの閾値を下げれば良い。

生きてるだけで有難い。とか

仕事があるだけまし。とか

毎日健康だ。とか

住む家も着る服も食べるものもある。とか。

とかとか。

ほーら、幸せ。



ま、人間は欲深い生き物でして。

そんな簡単にいくかっつーの。

と、自分の論理をあっさりぶち壊して、

静かに去る。

それじゃ。

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