新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

2012年02月

はいどうも、

完全非暴力不服従主義者、

使用上の注意です。

お願いですから殴らないでください、My sweet 暴君・嫁。



とか誤解を招きがちな独り言はさておき、

今回のタイトルは、「喧嘩するほど仲が良い」と

「仲良きことは美しき哉」を足し合わせてみた。

なぜ足し合わせたかは、追々分かるから気にしないように。

取り急ぎ、「喧嘩するほど仲が良い」を考えてみる。

つまり、喧嘩とは互いの欠点や短所を知った上で、

それがジブンの価値観にそぐわない部分があるからこそ

生じる人間関係上のトラブルであって、何も知らない

赤の他人といきなり喧嘩に発展するケースは少ない、と。

だからこそ喧嘩が発生している時点で互いをよく知ったもの同士が、

それぞれの価値観を突き合わせたことの証左に他ならずして、

それほどお互いを知ってるんだから仲が良いってことだよね、的な。

そういう人間観察と理論構築のもとから生まれでたことわざだ、きっと。



翻って後者はどうか。

「仲良きことは美しき哉」を文字通りそのまま解釈すると、

誰かと誰かが仲良く過ごしている光景は微笑ましく、

混沌と混乱と混迷が支配する現代社会における一服の清涼剤だからして、

世界中の人たちが右も左も男も女も老いも若きも乗り越えて仲良くなれば

「あっ」という間に美しき世界の出来上がり、ってことだろうか。

ただ、それだけだと単なる客観的な光景描写に過ぎないワケで、

そこに何らかの寓意や教訓が込められているはず。

だってことわざだもん。

ここは大胆にもオレが考える注釈を加えるとしよう。

「仲良きことは美しき哉。だから仲良くしようぜ、人類」。

これでどうだ?(と、聞かれても



さて、話は変わるが論理的推論の有名な一形式に、

「三段論法」と呼ばれるものがある。

「A=B」and「B=C」ならば、「A=C」っていう、例のアレだ。

我ながら、どんだけ乱暴なまとめやねんとか何とか

一人ツッコミを繰り出しそうになるが、

まぁ面倒臭い時間もないので割愛する。

とにかく、

「オレは実在の人間だ」:「A=B」

「実在の人間はいつか必ず死ぬ」:「B=C」

「オレはいつか必ず死ぬ」:「A=C」

ぐらいの論理構成を理解してもらえればそれで良い。

本当は良くないんだろうけど、今はそれで良い。

詳しく知りたい人はggrks。



話を戻そう。

最初の方で、「喧嘩するほど仲が良い」と

「仲良きことは美しき哉」をジブンなりに解説してみた。

で、アレをもっとシンプルに図式化するとどうなるか。

「喧嘩をする=仲が良い」

「仲が良い=美しい」

「喧嘩は美しい(だからもっと喧嘩しようぜ、人類)」となる。

さぁ我が不倶戴天の敵・嫁よ。

レッツ・ファイティン!

己の存在証明を賭けて、存分にかかってくるが良い!

いつ何時、嫁の挑戦は受ける!!

あ、いや、いてててて、ちょ、待っ、暴力はダメだ暴力は。

ゲフっ(吐血

【使用上の注意v.s.嫁 309回戦】

使用上の注意:0勝308敗1引き分け

嫁:308勝0敗1引き分け

それじゃ。

はいどうも、

「チャンスの神様捕獲主任技術者」、

使用上の注意です。

幾多の失敗を乗り越えて、

この資格を手に入れるまでの長いこと長いこと。

それこそ枕を涙で濡らす夜を幾晩過ごしたコトか。

過ぎ去るチャンスの神様を何人見過ごしてきたコトか。

その度に「後ろ髪ぐらいアデランスしとけよ」と、

何度一人突っ込んだコトか。

それでもなお過ぎ去る神様を見送り続け、

その度に地団駄を踏みながら手を突き出すべきタイミングを図り、

ようやく手に入れた「チャンスの神様捕獲主任技術者」資格。

「1級チャンスの神様捕獲師」でも目指そうかしら。

しかし、これでもうお気に入りの枕を涙で濡らすコトもあるまい。

まぁ俺が枕を使わない人だというコトはこの際さておくとして。



前置きが長くなった。

昔からよく言われることわざ(?)のひとつに、

『チャンスの神様に後ろ髪はない』というものがある。

「あれ?これってチャンスの神様来たんじゃね?」と思うが否や、

すぐさま両の手を差し出してやおらむんずと神の髪を掴まねばならん。

さもなければ彼の神様には後ろ髪がないのであって、

少しでもためらえば「あっ」という間に神は過ぎ去ってしまい、

必死に伸ばした手を握ってみても神の後ろ髪はないのであるから

次の刹那にはもう神の姿などそこにはない。

あるのは虚空を掴む己が拳のみ。。。

転じて、チャンスをモノにしようと思えば

ためらいなく思い切り良く一歩を踏み出すべきだ、

ぐらいの意味が込められている(多分)。

で、今日はこの使い古された格言に沿って、

チャンスの神様を捕まえる方法を少し考えてみたんだが、

まずもってチャンスの神様とはどのような御姿をなされておいでであろうか。



わざわざ「後ろ髪は」ないと言われているぐらいであるからして、

論理的に考察すれば前髪・横髪・頭頂部がフサフサであろうことは推測できる。

そして神様と言われているぐらいであるからして、

それなりに威厳を持った姿形をされているであろう。

何となれば後光が差しているかも知れないし、

御神体そのものが光を放っていると考えても違和感はない。

仮にチャンスの神が幼稚園児の風体をしていようものなら、

果たして人々は先を争うがごとく願いを祈るだろうか、いやない。

人智を超越した存在にこそ人は祈るのであって、

自らの存在より軽いもの(あるいはそう推察されるもの)に対して、

「家内安全・祈願成就」を願うだろうか、いやない。

従って、痩身白髪の老人が最もイメージに近いのではなかろうか。

もっと言えば手には杖、装束は白い浴衣、足は裸足だろうな、きっと。

で、すぐさま掴まねばその姿は一瞬のうちに消え去るのであるからして、

それはもう大阪府警本部も真っ青なスピードで駆け抜けて行くワケだ。



まとめる。

チャンスの神様は、前と横と頭頂部はフサフサの白髪で

痩せたご老人である。

そして杖を突き突き浴衣の裾をなびかせて、裸足のまま、

やや光りながら推定時速数百kmで駆けて行くご老人でもある。

さぁ賢明なる読者諸君。

そのようなご老人が近づいてくる気配を感じたならば、

何も考えずに手を差し出すが良い。

暗い夜道を一人歩くときも、遠くから迫る

淡い光をたたえた高速で機動するご老人に注意すべきだ。

そして見かけるやいなやむんずと彼の髪を掴むが良い。

さすれば大阪府警本部から、不審者逮捕の感謝状が出ると思う、きっと。

何とすれば金一封が頂けるやも知れぬ。

まさにチャンスの神が与えたもうた不審者逮捕のための、

千載一遇のチャンス。

ゆめゆめ逃すでない。



途中から考察が横道にそれたコトに気づきつつ、

他人事のような雰囲気でそっと去る。

それじゃ。

はいどうも、

年に何回か訪れる読書ブームの真っ只中、

使用上の注意です。

仕事が閑散期に入ってヒマができただけジャンとかいう

無粋なツッコミも、この際甘んじて受け入れよう。

が、しかし。

より正確な表現をお願いできるのであれば、

殺人的な案件ラッシュが落ち着いてようやく

人間らしい営みを手に入れたと言って頂きたい。

健康で文化的な最低限度の生活ですよ、文字通り。

やっと私にも日本国憲法の庇護が及んだらしい。



それはさておき、世間には「読書信仰」なるものが

はびこっている気がしてならない。

親は二言目には本を読めと口走り、

学校の先生も口を開けば本を読めと言い、

テレビをつければ全国の小学校で読書が奨励されていると

映像メディアの自己否定にさえつながりかねない報道を繰り返し、

上司も取引先も本を読めとのたまう。

まさに読書礼賛・読書万歳。

「一億総火の玉読書だ」的な

読書家量産計画でも動いているのだろうか。

闇に紛れて、陰謀がうごめいているのだろうか、出版社主導で。

まさに蠢動、春だけに。

いや、まぁいまだ春というには早すぎる気がしないではないが、それは良い。

とにかく、読書をすれば何らかの問題がオートマティックに

解決するかのごとく読書を奨励する社会の空気に、

何となく違和感を感じるのも事実であって。



別に読書がダメだと言いたいわけではない、決して。

現に私も読書が好きだし、本の世界に飛び立つことだって

ニッツネチャメシゴト(日常茶飯事の意)であるからして、

むしろ読書推進派と捉えて頂いて一向に差し支えない。

特に、幼少期から読書を嗜むことは豊かな想像力と

コミュニケーション能力と心情を慮る力と、

何であれば妄想力でさえ磨く訓練となる。

私の幼少期など本に埋め尽くされていたと言ったらそれは過言だ。

申し訳ない。

私とて、読書だけで過ごしていたワケではないな、やっぱり。

人並みに外を走り回っていたし自転車に乗るコトの楽しさに

ハマっていた時期もあるし、何より恋をしていた。

そういえば小学校時代に片思いをしていたあの子が

実は私のコトを好きだったらしいと同窓会で聞いて色めき立ったのは良いが、

アレコレ考えてあぐんでいる内に別の同級生と付き合ってしまって

涙目になったのも、良い思い出である。

いや、やっぱり良い思い出ではない。

何となれば思い出すと今でも切なくなる悲しい傷だ。

まさに傷だらけの天使。

あの子は今頃何をしているんだろうか。

もう結婚して子供でも産んでいるのだろうか。

たまには俺のコトを思い出していたりするのだろうか。

やっぱりあの時思い切って告白しておけば良かった。

ん?何の話だっけ?



そうそう、読書だ。

ビジネス書であれ小説であれ、もっと言えば下品なゴシップ誌であれ

健全なる男性諸君専用のピンクな作品であれ、読書は見知らぬ世界の

一端を我々に提供してくれる魔法である。

先人たちの煩悶と苦闘と研鑽の末に積み重ねられた知恵を

血肉とする効率的で高尚な作業である、読書は。

しかし、だ。

読書をしたからと言って、彼または彼女の抱える課題なり

問題なりが自動的に解決するワケではない。

例えば成績不振に悩む営業マンが読書に励んだからと言って

翌日から突然見違えるように売り上げが伸びるワケもない。

従って、ただ盲従的に盲信的に闇雲に本を読めばそれで良いワケでなく、

その点をわきまえておくべきではなかろうか。

読書で得られるものは現実世界の問題解決を促す原動力になりこそすれ、

問題解決策そのものには決してなり得ない。

先に挙げた営業マンの例で言えば、読書で得られる想像力や知識、

コミュニケーション能力を活かすことで、それまでの営業手法を変革すればこそ

成功を得られるのであって、読書はその直接的解決手段ではない。

つまり、問題を解決するために本を読むのでなく、

問題を解決する能力を養うために本を読むのであるから、

安易に読書という行為のみに満足してはいけない。

そこで得られた成果をどう活かすのか。

それは読書者次第。



間違ってもこんなくだらないブログを書くコトに、

読書で得られた貴重なリソースを費やしてはならない。

私のようにね…。

それじゃ。

はいどうも、

生粋のA型、

使用上の注意です。

つまり何が言いたいのかと言うと、

私は「几帳面な男」だというコトが言いたいのですよ。

そう、私は几帳面な男である。



だって考えてもごらんなさい。

毎度毎度くだらない内容をただただ書き殴っている、

かのように見えるこのブログ。

一見すると無秩序とカオスと混沌が支配しているようにさえ

思えるこのブログでさえ、書き出しはいつも決まって「はいどうも」。

誰に対して、何を受けて、どのような状況で「はいどうも」と

語りかけているのか、自分にさえもはや五里霧中であることを

決して否定はしないが、それにしたって几帳面なことに

いつも決まって「はいども」なのだから、

これを几帳面と言わずして何と言う。

そしてそれはA型の特質であって特徴であって性質であって

傾向であって、それ以外の何だというのだろうか。



洗濯物の干し方ひとつ見ても、私が几帳面であることは証明できる。

我が家には、私が独身時代から洗濯物を干し続けて来た緑色の

ワイヤーハンガーと、嫁がその実家から持って来た青色の

ワイヤーハンガーが混在している。

緑ハンガーは私が丁寧に扱って来たのでまだどこも歪みがない。

一方の青ハンガーは義母の扱いがどうだったのか歪みがひどい。

で、必然的に几帳面な男であるである私は、緑ハンガーを優先して使う。

物干し竿に吊るす際も緑ハンガーから吊るし、

足りなくなったときだけ青ハンガーの出番がやってくる。

干し上がると、緑ハンガーの一群と青ハンガーの一群が

綺麗に別れていて、壮観である。

が、しかし。

我が不倶戴天の敵・嫁にその心意気は通じない。

嫁が洗濯物を干したあとは、緑や青のカオスが出現しているのだ。



私の几帳面さは筆箱を見てもらっても分かるだろう。

カラーペンはすべて同じブランドで統一してあるし、

消しゴムはその減り方にあわせて紙ケースを切りそろえる。

そしてシャーペンも含めたペン類は

すべて同じ方向を向いて収納している周到さ。

三色ボールペンを使っていて青・赤・黒の減り方が不均衡だった場合など、

多めに残っている色を無駄に使ってしまうぐらいの几帳面さなのである。

もっとある。

当然コミックスは刊行順で本棚に鎮座しているし、

読了した小説群も著者毎に並べているし、

仕事で作成したファイル名にもネーミングの法則を持っているし、

他にも私の几帳面さを証明するエピソードには事欠かないが、

紙面の都合もあるのでここでは割愛する。



つまり何が言いたいか。

表面上私がどう思われていようと、

本質的に私は几帳面な男なのである。

例えオフィスのマイデスクが散らかっていようが、

我が実家の自室がどれだけ散らかっていようが、

思考が混沌としてまとまらず脳内カオスを形成していようが、

思考の混乱のせいで案件処理に支障をきたしていようが、

本質的に私は几帳面な男なのである。

そこのところを決して忘れて欲しくない。

それだけだ。

それじゃ。

はいどうも、

人を楽しませるのが好きです、

でも、ジブンが楽しむのはもっと好きです、

使用上の注意です。

ここで注意したいのは、

その考え方は決して自己中心的なものではないとう事実。

つまり、誰かを楽しませたり笑わせたりすることで

「他人を楽しませられるオレカッケー」的な幸せ回路が発動し、

結果的にジブンが一番楽しんでいるということであって。

だから、オレがジブンの人生を楽しむことイコール、

別の誰かを楽しませていること、ってワケ。

冗談じゃないよ、本気だよ。



と、そこまで考えてみて思うに、

誰かを楽しませるってどういうことだろうか。

例えばこのブログで言うと、

誰かを楽しませる文章(=ブログ)ってどんなものだろうか。

読む人に何らかの楽しみを提供できるブログ。

読んでいて思わずクスっとできる小気味良い文章。

それが書ければいつかオレだって、某有名出版社の

やり手編集者の目に留まって出版化→印税生活という

夢のゴールデンコンボが成立する、ハズ、きっと、多分。

だから今日は改めて、楽しい文章・面白い文章・

また読みたくなる文章と、その書き方を考えてみたい。

ただ、この時点で、つまり本題に入る前に、ここまで

字数を浪費している時点でこの文章が万人受けする

名文でないことが明らかだ、残念ながら。



そうやって読者からの評価を極限まで下げた上で、

気を取り直して本題。

人を楽しませる文章といってもイロイロあるわけで。

そもそも“楽しむ”って言葉自体に様々な意味が内包されている。

ガッハガッハと笑える楽しみ方があれば、

ほ~ぅなるほどと頷く楽しみ方もあり、

クスクスと含み笑う楽しみ方があれば、

ホロリと涙する楽しみ方もある。

ただ、そのどれもに言えるコトを考えるに、

文章を読んで楽しむとは恐らく、読者の中にない発想・

情報を提示することや、あるいは読者の思いもしなかった

既知の事実の組み合わせを開陳することではないだろうか。

しかもそれらの言葉の連なりが日本語として破綻せず、

文意として分かりやすく頭に入りやすいことも必要だろう。

一読して理解が及ばないような難解な思考哲学は、

文章を楽しむ前に挫折を迎えるに違いない。



と言うことはつまり、オリジナルの発想・組み合わせ方で

平易なオリジナルの文章を編み出していくことこそ、

誰かを楽しませる文章を書く方法に他ならない、気がする。

そう考えた時、ジブンの駄文を振り返ってみると、

何故だか悲しみと切なさと無力感と虚しさと不安感と

絶望が幾重にも折り重なるように去来し、何故だか

モニタが滲んでよく見えなくなるのであって、

現実ってのはこうも残酷なのかという思いを胸に今日はもう寝よう。

明日になれば某大手出版社の敏腕編集者から

ブログ書籍化の連絡が入るはずだから(幸せ回路)。

それじゃ。

はいどうも、

“会社を辞めないが頑張りもしない

 「新・ぶら下がり社員」”世代(らしい)、

使用上の注意です。

どういうことか。

1980年前後に生まれた世代、

つまり今現在アラサーと呼ばれる人たちは、

会社生活での昇進に意欲がなくプライベートを優先し、

仕事で成し遂げたい夢も目標も持たずに漂流している、らしい。

といっても仕事をサボるワケではなく、

取り組む姿勢はマジメそのもの、らしい。

で、自分から組織を引っ張ろうとせず、マジメに

仕事をしているがその実態は単なるダメ会社員という

我々世代を名付けて、「新・ぶらさがり社員」だそうで。

参考記事。



まったくもって失礼極まりないレッテル貼りだが、

我慢してもう少し提唱者の話を聞いてみるに曰く、

『吉田氏は彼らが「過去に例を見ないほど不運な世代」として
 自信を失い、強い諦め感を抱いているおそれを指摘している』

ふむ、確かに。

我々が物心ついた頃、日本はバブルに踊っていた、らしい。

そう、1980年前後生まれはバブルの実像を経験していない。

やれタクシーを止めるために万札を振りかざしただの、

やれドンペリニョンのシャンパンタワーが林立しただの、

やれ億ションが飛ぶように売れただの、

やれ東京23区の土地価格でアメリカ全土が買えただの、

やれ保険会社が海外の美術作品を買い漁って顰蹙を買っただの、

わしらには全部遠い世界の出来事じゃったんじゃよ…。

少なくとも私にとってバブル狂騒曲は

ニュースやテレビの世界のお話であって、

自分には関係のない遠い世界の出来事、的な?

ジュリアナを取り上げたテレビを見て、

「やたらと薄着したお姉さんがセンスを持って踊ってる」。

そんな感覚しか持たなかった。



ところが、だ。

気づけばバブルは泡と消え、国破れて山河在り。

我々がバブル経済の恩恵を受けるその前に、

日本は坂を登りきってしまったのだからしょうがない。

文字通り坂道を転げ落ちるように経済は失速し、

あとはもう真っ逆さまの木の葉落とし。

潰れるはずがない(と、子どもながらに思っていた)銀行&大企業が

バッタバッタとすっ転び、偉そうな大人が涙目で謝罪謝罪&謝罪。

薬害エイズやらノーパンしゃぶしゃぶやら天下りやらで、

官僚&政界汚職も次から次への大放出。

挙句の果てには阪神淡路大震災。

もうね、アフォかと、ヴォケかと。

勉強=良い学校=良い会社=年功序列・終始雇用=一生安泰、

という“昭和の公式”が音を立てて崩れ去った20年を過ごしたワケだ。

それなのに、だ。

教師・親世代は自らが成功した(と思っている)昭和公式以外に

語るべき処世術も目指すべきビジョンも、伝えるべきソリューションも

思想も哲学も、何ら持ち合わせず、壊れた蓄音機のごとく

ただただ遺物と化した公式を繰り返す人の多いこと多いこと。

就職?氷河期(の最後の方)でした。

新人時代?ITバブルが壊れました。

5~7年目?リーマンさんがお亡くなりになりました。

今?東日本大震災やら超円高やらで大変です。

これで夢も希望も持てという方が無理じゃね?

つーか、改めて記憶の糸をたどってみれば、

なかなかに壮絶な世代ですなぁ、我々。

だからこそ、冒頭の「新・ぶら下がり社員」提唱者は

冒頭の結論を導き出したんだね、とある程度納得、

できるハズがない。



時代背景がひとつでもその受け取り方は千差万別十人十色。

家庭環境も受けた教育程度も重ねた人生経験も違うのだから、

画一的に皆が皆「会社にぶら下がりたい奴」ばかりじゃねぇって。

現に同世代で未来のリーダーとしてバリバリ活躍してる奴がいれば、

上にも下にも会社依存でのんびりまったり働いてる奴がいるワケで。

確かに、1980年前後生まれが歩んできた道は、

将来への希望を持ちにくい人間を多く生み出したかも知れん。

でもだからといって十把一からげに

「おめーら会社にぶら下がってんじゃねーよ」とか

言われたくはない。

こっちだって一生懸命前を向いて上を向いて頑張ってるっつーの。



仮に1兆歩譲って「新・ぶら下がり社員」という

レッテルを甘んじて受けたとして、その提唱者が言う対処法が、

『吉田氏は、彼らに失った自信を取り戻し、能力を発揮し
 成長してもらうためには、「難易度の高い仕事を任せる」
 「変化を期待し伝え続ける」「遠くから見守る」「部下を責めない」
 といった育成スタイルを業務に取り入れることを提案している』

というのは、何だかさらにバカにされた気分。

対象者の持っている能力より一段高い課題を与える。

“期待している”という意思表示をし続ける。

干渉しすぎず放任しすぎず見守る。

失敗したとしても安易に責めない。

ってコレさ、別にアラサーとか関係なく、

単に若手人材の育成法じゃねーか。

今更高々と、朗々と謳い上げるようなお題目かね?



何だろうこの消化不良感。

2,000字以上も費やして得られた徒労感。

突然現れた見ず知らずの偉そうなオッサンから

アホだのバカだのさんざん罵られた挙句、

「お前らは所詮若造だクソヤロウ」的な

捨て台詞を残して言い逃げされた、そんな感じ。

それじゃ。

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