新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

2012年03月

はいどうも、

明日はいよいよ待ちに待ったあの日、

使用上の注意です。

そう、4月1日四月馬鹿エイプリルフールだね。

毎年毎年どんなウソをついてやろうか

誰を騙してやろうか嘲笑ってやろうかと、

舌なめずりをしながら悪企んでいるのだが、

やはり生来のお人好し・善人っぷりが災いして

結局誰も騙せずウソをつけずに4/1を終えてきた。

しかし、今年のオレはひと味違う。

今年こそとっておきのウソで世間を「あっ」と言わせてやる。



ただ、当然ながらどんなウソでも良いワケではない。

誰かを傷つけたり世間様にご迷惑をおかけしたり、

そういう誹謗中傷とか実害を与えてしまうウソは良くない。

その辺は良識ある社会人の一人として肝に銘じたいところでして。

ウソをウソだと見抜かれたとき「ガハハ」と笑って飛ばせるような、

可愛らしい悪意のないウソでなければイカン。

そうじゃないと無用の混乱と混迷と混同とを招き、

棍棒を持った暴漢に襲われかねんから。

何よりも自分の体面と世間体と外ヅラを重視するオレにとって、

そんな事態は避けたいのです。

自分の周囲はもちろん、社会全体に実害を与えず、

それでいてネタバラシを聞いた人が臆面もなく大口開けて

「あっ」と驚くような、そういうラインを狙いたいワケですよ。

そう考えると意外や意外、

エイプリルフールとは気軽にウソをつくお気楽イベントでなく、

高度な頭脳と推理と心理のせめぎあい溢れる

サスペンスフルなスペクタクルなのかも知らん。



これは困った。

エイプリルフールを舐めていた。

「四月馬鹿」というのはまさか、ウソをつきたくてもつききれない

オレのような人間を言うのではないか、という疑念さえ頭をよぎる。

ダマされる奴をバカにしようとしたつもりが、

ダマしきれずバカにされるオレ。

何と滑稽な姿よ。

これもイカン。

幼少期より一流のカッコつけとして自他ともに認めるオレとしては、

さりげなくカッコ良く爽やかにいけしゃーしゃーと、

ありもしないがありそうなラインを鋭く突いて、

誰にも怒られないぐらいの罪のないウソをつかねばならん。

男には、やらねばならんときがある。

それが今。

エイプリルフールを翌日に控えた3/31深夜。

まさかそんな運命の日が唐突にやってくるとは知れず、

平和ボケした日常をただダラダラと過ごしてしまった自分に

後悔の念が後から後から湧いてくる。

それでも、やらねばならん。

ねばならん。



かつて、コレほど真剣にエイプリルフールに臨む

三十路過ぎのバカな男がいただろうか。

いるハズがない。

なぜなら、バカげているを通り越してバカだからだ

誰も彼も大人の仮面をかぶってすまし顔だからだ。

いつまでも少年の心を忘れない。

明日、オレは輝く。

限りなく鈍く。

それじゃ。

はいどうも、

雨が嫌いで晴れも嫌い、

曇りが好き、

使用上の注意です。

ただ、もっと正確に言えば

今にも降り出しそうなどんよりとした曇りより、

薄日が差すか差さないかぐらいの薄曇りが理想。

次の刹那には晴れ渡った青空になるかも知れんし、

あるいはあれよあれよと黒雲に変わって土砂降るかも知れんし、

そんなどちらにも転ぶ危うさ的な雰囲気が好き。



こういう話をすると決まって

「○○さんって、変わってますよね」

って言われるのだが、そんなに変かね?

あ、○○にはオレの本名が入る。

やっぱりどこまでも澄み切った青空が好きって人が多いのかね。

逆に数メートル先さえよく見えないほどのスコールが好きって人も、

意外といるのかも知らん。

でも、よく考えてごらんよ。

晴れはあくまでも晴れであって、

何だか無理やり清々しい気持ちにさせられてる気がしてならないワケで。

生きていれば「今日は何だかノらねぇなぁ」って日もあるのだから、

そんなときにクッソ爽やかな青空とかを見せられたら、むしろ

「太陽ウゼー」ぐらいの気持ちが湧いてきて余計に気分は暗くなる。

それがジャジャ降りの雨だったら「天気まで鬱陶しい」って

なるもんだから、「もっと落ち込め」と

言われてるような気がして気分が悪い。

それを踏まえて曇り空ならどうだろうか。

晴れでも雨でもないどっちつかずな曇り空を見あげれば、

思う存分陰鬱な気分で落ちるとこまで落ち込めるじゃないか。



じゃぁ気分が良い時の晴れ&雨はどうかというと、

テンションアゲアゲでピーカンの青空を見上げてしまうと、

ただでさえ高めのテンションがさらにブーストされてしまう。

すると、普段は到底しないような凡ミスを犯す危険性が増す。

普段からケアレスミスの多さに定評のあるオレとしては、

“ミスの多い男”というレッテルをこれ以上貼られたくないものだし、

ベーステンション×太陽補正テンション→ミスという

図式は何の言い訳にもならないのであって。

まさか上司に向かって「太陽は罪な奴」とか言うワケにも行かない。

で、テンションアゲアゲ×雨はどうか。

これはマズイ。

非常にマズイ。

なぜなら「こっちは気分良く生きてんのに雨かよ!」と、

謂れなき憤りがオレの全身を支配してしまい、

結果的にテンションが下がってしまうからだ。

クールを装っているが非常に短気という評価をほしいままにしている

オレとしてはこれ以上短気キャラを浸透させたくないし、

何より短気は損気。

無用の衝突は何も生まない作らない得られない。

こう考えると、曇りのニュートラルさこそ至高

という結論が何の違和感もなく五臓六腑に染み渡る、でしょ?

嗚呼、曇り空の素晴らしきかな。



ただ、オレの中で唯一曇り空を許せないときがある。

写真を撮るとき、曇りはイカン。

晴れはもちろん、雨だってそれはそれで絵になる。

が、曇りは全体的にのっぺりするし光量は不足するし

カゲが薄くなるしで絵にならんのだ。

普段は終日薄曇り、撮影の仕事が入ったときだけピーカン。

そんな星に住みたい(無茶な願い)。

それじゃ。

はいどうも、

リアル友人から

「お前のメールは迷惑メールに限りなく近い」

と口汚く罵られたコトがある、

使用上の注意です。

全く、器が小さい奴はヤダねぇ。



それはさておき、ネット黎明期から今に至るまで、

いわゆる迷惑メール業者・スパムメーラーが跳梁跋扈している。

いちいち鬱陶しい奴らのメールをちまちま削除するのも良いが、

ココはひとつネタにしてやろうかと思う。

というワケで、スパムメールの【件名】にツッコミを入れてみたい。



■作品ナンバー01

なになに?恥ずかしがり屋さん?(笑)照れることないよ、
 私はすべてを受け止めるから。


初めに断っておくが、これは【件名】である。

通常スパムメールといえば受信する人の知り合いを装い、

間違って開封させるコトを企図したものが多いのだが、

これは新しい。

まさに出オチ。

が、惜しむらくはこれを受け取ってもオレ、絶対に開かない。



■作品ナンバー02

貴方にはご迷惑をおかけしました、
 聞いてくれてありがとうございます。


何を?と思ってしまうと業者の思うツボ。

不釣り合いに高価なツボを買わされかねん。

その意味では比較的高い開封率が期待できそうだ。

でも、もうそれだけで怪しさ2割増しとなる呪われたキーワード

「貴方」とかを無用心に使っちゃってる当たり、

業者の脇の甘さというか作成者の頭の悪さを感じ取れる。




■作品ナンバー03

サイトで地元に登録している男性に渡せというのが母の言葉でした

出会い系のスパムメールに“母”という単語が

織り込まれている点で、新鮮な件名。

およそ似つかわしくない言葉選びに

若干のセンスを感じて若干の嫉妬を覚えるのは、

オレが大人になったせいか?

ちなみに母から託されたモノとは、寄付金でした(本文より)。



■作品ナンバー04

初回からHOTELってありですか?

初球ど真ん中ストレートキタコレ。

打ってくださいと言わんばかりに投じられた棒球を、

涙ながらに見送る(ゴミ箱に入れる)のは忍びない。

ここまでストレートに迫られたら、

その心意気に応じないのは男が廃る。と、受取り手に

思わせるのが業者の意図っぽいので、ココは男らしく瞬殺してみた。



■作品ナンバー05

私のプロフィールには目を通していただけたでしょうか?
 求める関係は特別なものではありますが、極力貴方の事情・都合を優先し


長い。

ムダに長くて、オレのメーラーでは表示されずに切れた。

と同時に堪忍袋の緒も切れた。

ついでに言えばブチ切れた。

どうせならちゃんとやれよと、スパム舐めてんのかと、

それでもオメーはプロフェッショナルかと。



こうして改めてスパムメールを眺めてみれば、

最近の奴はまさに手を変え品を変えって感じがする。

まぁどんな【件名】でオレにメールを送ってきても、

貴様らに明日はない(絶対に開かないの意)!!

ん?新着メールが来たぞ?

「件名:久し振り!元気してる?また会おーよ♪」

こ、これは?!

まさか小学校のときに相思相愛だったミチコちゃんから?

それとも中学のときにフラれたリナちゃんから?

意外や意外、高校時代の元カノ・チカちゃんから?

ぃよ~し、メールオープンっ!!

それじゃ。

はいどうも、

数週間前に今更感満開でNintendo 3DSを買った、

使用上の注意です。



購入したのはコレ。

何事も順序と序列と順番を大切にする保守主義者なオレは、

「初めての3DSで初めてのモンハンなら

 『はじめてハンターパック』でしょ!」

と、メーカー側のマーケティング戦略にまんまとはまってみた。

いや、オレの名誉のために言い直そう。

超優良顧客として日本経済に貢献しているんだ。

そうだろ?

そうだと言ってくれ。

頼むから。



それはまぁ良いとして、

このNintendo 3DS×モンスターハンター3G、良いよ。

裸眼3Dとやらに初挑戦してみたが、

これが思った以上に3D。

特に、モンハンみたいな空想世界を思う存分駆け巡る系の

アクションゲームには、ぴったりの映像表現ではなかろうか。

奥行きというか空間の広がりというか、

たかだか数インチの液晶に描かれたフィールドとはいえ、

その中をまさに“駆けている”感覚が手に入る。

ちなみにモンスターハンターとは

主人公が「ハンター」として村人や所属組織からの

依頼をこなすというもの。

まぁ細かいコトはggrks

とにかく、3Dで構築された仮想現実と

「ハンター」生活が実にマッチしていて、

これは良いモノだ。



また、3D部分に目が行きがちではあるが、

3DS版モンハンの魅力は立体映像だけに限らない。

澄み切った青い空と鬱蒼と茂る森。

強烈な日差しと乾いた空気。

猛烈な吹雪と凍りついた大地。

マングローブと思しき密林に深遠なる大海。

気候も植生も、そしてそこに住まうモンスターも異なる

様々なフィールドが、ハンターの来訪を待ち受けておりまして。

フィールドそれぞれにキチンと特徴が付けられているので

多彩なミッションの種類・豊富なモンスターと相まって、

毎日飽きずにハンター生活を満喫できる。

3DS版モンハンをプレイしている人はみんな、

フィールドのど真ん中で叫んでるんだろうなぁ。

『狩人王に、オレはなる!!』(ドドン)

って。



と、こうして書くと改めて思う。

いや~、Nintendo 3DSのモンハンは素晴らしいと。

アレしろコレしろとうるさい指示ばかりの上司もいなければ、

アレしてコレしてとうるさい後輩もいないし、

ゲームに熱中するオレを見つめるMy Sweet暴君・嫁の冷たい目線もない。

代わりにあるのは、代わりにあるのは何だろうか?

やれキノコを採って来いだのモンスターを狩って来いだのと

うるさいハンターギルド(所属組織)の皆々様と、

やれ畑の設備を直してくれだの漁船を修理してくれだのと

うるさい村人たちの皆々様と、

ウキウキ気分で狩猟生活を楽しんでいると

溢れる殺気とともにハンター(オレ)を見つめる巨大モンスターの、

爬虫類独特の冷たい目線…。



うん?

現実逃避できて、ない?

狩人王への道は、まだまだ遠い。

それじゃ。

はいどうも、

時々「もうどーでもええわ」ってなる、

使用上の注意です。

いや、ホンマにごく稀なアレやし、

もし「どーでもええわ」ってなってもすぐに

「そんなん言うてる場合ちゃうし」って思い直して結局頑張るし。

ただ、数年に1回レベルで「アカン、もうええわ」ってなって

そのときはマジでやばくて何をする気にもなれんと

ただ呆然と何もない空間を見つめてまうってだけの話。



なぜやたらと関西弁が飛び出ているのか我ながら謎ではあるが、

誰にだってそういうときってあるよね?よね?ね。

何もかもが面倒になって鬱陶しくなってどうでも良くなって、

後は野となれ山となれ、煮るなり焼くなり好きにしろ的な、

極めて退廃的で怠惰な心持ちに襲われる瞬間。

そこからどの程度の時間を空虚に消費してしまうかは

多分人それぞれだろうし、非常に優秀な自律型ビジネスマンであれば

ものの数秒で気持ちを切り替えて次なるハードルを見つけるかも知れん。

が、オレはそうでない。

どこにでもいる少し頭のおかしい社会人であるオレが、

数年に一度猛烈な勢いで襲い来る“虚無感”に抵抗できるはずもなく、

呆気なく白旗降参の上思う存分“空”となる。



日常生活がどうなろうと知らん。

そんなコトは知らんのである。

ただ、これって社会人としてどうなのだろうかと、

自分に対して自問自答したい気持ちもないではない。

心身両面でどんなコンディションにあろうとある一定の

アウトプットなりインプットをこなしつつ周囲の期待以上に

成果を上げ続けるコトこそ社畜・労働奴隷階級社会人たる

我々の勤めであり義務であり成功への近道なのだから。

考えるべきは2つ。

1.いかに“虚無感”の襲来を防ぐか。

2.いかに“虚無感”から早期に脱出するか。

だ。



虚無感が襲い来るのは、

毎年突如として現れる業務のエアポケット期間であるコトが多い。

それまでの鬼のような忙しさがウソのように過ぎ去り、

凪のような時間がベールのようにオレを包むそのとき、

アイツはやってくる。

絶え間ない緊張から逃れた一瞬のすきを突いて、

アイツはやってくる。

こうなるともう、ダメだ。

魂を抜かれたオートマトンのごとき姿で、

ただ無為に時間を過ごしてしまう“空”なオレの誕生である。

まさに『小人閑居して不善を為す』。

ヒマはイカン。



さりとてヒマなときというのはどうしてもできてしまう。

それに24時間戦える企業戦士ならいざしらず、

本性は怠惰で怠慢で楽な方へ流れたGirlなオレは、

ヒマを恐れる一方でヒマを欲してしまうのだから。

いや、オレは正真正銘の三十路2年生のオッサンだけどそれはまぁ良い。

ヒマが虚無感を呼び込むとして

そのヒマは避けがたい現象だと定義すると、

虚無状態の“空”から早急に離脱する方法を考えねばならん。

過去の経験から考えるに“空”が終わりを告げるのは…、

切迫感とか危機感とかタイムリミットとか締め切りとか、

何らかの強制力を持ってオレの行動を縛るアレコレが生まれた時、か。

つまり虚無感に襲われず、万が一襲われても早急に離脱するためには、

暇な時間を作らず常に締め切りに追われていれば良い。



ハッキリと申し上げる。

そんな人生はイヤだ。

それじゃ。

はいどうも、

何度失敗と挫折を繰り返そうが、

性懲りもなく二兎を追っては手ぶらで帰る、

使用上の注意です。

学習しなきゃダメなんだぜ。



とはいえ、人間なんて欲深い生き物だ。

たとえ美人で性格が良くて魅力的な良妻賢母を娶ったとしても、

ぽっと出の若くて新鮮な女性を見れば追いかけたくなる男たち。

女性に目を転じてみても靴やら服やらカバンやら、

似たようなモノを何種類持っていようが

新製品やら限定品やら舶来品には目がないのだから、

まぁ似たようなものだろう。

当然、「オレは妻以外に興味なんてない」と豪語する殿方がいるだろうし、

「必要最低限のモノしか買いません」と断言する奥方もいるでしょう。

そんな人にはMy Sweet暴君・嫁に煎じて飲ませるための

爪の垢を少々分けてもらいたいと思う一方で、

少し意地悪な質問もしてみたい。

「今、生活に困っていないなら

 それ以上お金いらないですよね?」なんて。



もちろんその質問が詭弁であるコトなど百も承知ではある。

不測の事態に備えた貯金は必要不可欠だし、

老後の生活を支えるのは現役時代の蓄えなのだからして。

でも、その昔テンパでロン毛の中東在住な世界的聖人が

『人はパンのみに生きるにあらず』と宣って、

人は食べ物を得るためだけに生きているワケではないのだから

強欲は控えなさいと説いて回った、

という事実ひとつ取ってみても人の欲深さは証明できる。

普通この種の教訓は、現実にそれとは反対の事実(この場合は

強欲な人々の登場)があるからこそ発せられるのであって、

全人類が慎ましやかに生きている社会で

『人はパンのみに~』とか叫んでみても頭の痛い元・大工である。

大体、某・中東の預言者だって金貸しは悪だと断じたコトだって、

裏を返せば金融業が巨額の富を蓄積したからこそ

その悪性を指摘して暴利行為を抑止したかったワケで。

人間は、数々の聖人たちに咎められるほどに欲深く、

二兎を見れば二兎を追いかけたくなる性分なのですよ。



そう考えると日頃自らの強欲で失敗しがちなこのオレも、

実は一人の人間として極めてスタンダードな存在だというコトが分かり、

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な集団心理に安住できる。

それに、我らの東洋が誇るパンチパーマの全てを悟った人は、

良いことを言っていた。

いわく『地獄の沙汰も金次第』と。

やっぱり冥土の土産は現金同封の菓子折りかね?

オレも安心して二兎を追いかけよう。

心置きなく。

全力で。



ただ、結局二兎を追うものは一兎も得られない事実は

変えられないのだからやっぱり、一兎も得ず帰るワケですね。

結果、飢餓感から欲が強くなりもっと二兎を追うようになって

さらに何も手に入らない。

ザ・悪循環。

結論:良い子のみんな!強欲はホドホドにな!!

よし、正当化失敗(キリッ

それじゃ。

はいどうも、

今再び妄想の翼をは羽ばたかせん!

使用上の注意です。

隆々と躍動する筋肉が無数の羽を叩きつけ、

現実という重力のくびきから我が身を解き放ち、

いざ!妄想の世界へ!!



とか大仰に言ってみたものの、

まぁオレの妄想なんてそう大したものではない。

車が空を飛び、宇宙人と意思疎通を図り、

瞬間移動が実現するような現実離れした世界ではなく、

ストレスフルな現実社会から半歩ずれたぐらいの世界観。

じゃないと妄想から帰ってきたときの虚無感がハンパねぇから。

その辺の“越えたらヤバイ”ラインを十分自覚しつつ、

大人の節度とマナーを以って楽しむ。

だからこそオレの妄想は上品で上質で肌触りの良い妄想となる。

決して己の欲望を解放したような酒池肉林阿鼻叫喚な

下衆い妄想などではない。

断じてない。



それはともかく、前回も書いた通り最近のオレは

妄想の翼をもがれた哀しいカナリアでありまして。

あの、イマジネーションが掻き立てられたときに出くわす

一種独特の高揚感を味わうコトさえできず、

惰眠を貪ってしまっている。

ここはひとつ、これまで妄想の母胎として慣れ親しんだ

温かく優しい寝床を離れ、リビングのソファで目を閉じてみたい。

目の前で巨大な図体を晒してお昼寝あそばされている

My Sweet暴君・嫁の存在を思考の中から追い出して、

純粋なる己の内的世界への扉を開く…。

ギィっ…。。。



さぁどうだ。

オレは何だ?何モノだ?

世間巷間を賑わす話題の売れっ子小説家か?

世界をまたにかけて活躍するジャーナリストか?

数々の賞レースを勝ち抜き、

栄誉と賞賛をほしいままにしているクリエイターか?

あるいは意表をついて、オレ好みの細くて華奢で

肩までかかるぐらいのショートカットで20代前半な

新妻と幸せ一杯な家庭を築いている良き夫か?

それとも妻帯者でありながら人生最後のモテ期を謳歌し、

夜な夜な違うパートナーと一夜を共にするプレイボーイか?

どうだ。

妄想の世界でオレは、どんな幸福をその手に掴みとろうと言うのか?

薄いベールを頭からかぶせられたような意識の中で、

妄想世界のオレを妄想するオレ。

おぉ。

見える、見えるぞ、私にも見える!

結婚前は優しく思いやり深かった嫁がいつの間にか暴君と化し、

仕事でも思うような成果と評価を得られずに、

履き古したスウェットのごときたるんだ腹を悩み、

年老いた両親との心地良い距離感も掴みかね、

せっかくの休日を妄想に耽るコトでムダに費消してしまっている、

哀れな30男の姿が…。。。



おぉ。

妄想は我を見捨てたかっ!?

柔らかな日差しの差し込む日曜の昼下がり。

自宅のリビングでソファに腰掛け、

滂沱の涙を流しながら、

「この妄想はフィクションです。

 実在の人物・団体とは一切関係ございません」

と言い訳を申し上げつつ、去る。

それじゃ。

はいどうも、

妄想大好き、

使用上の注意です。

大半が、どうしようもなくダメな妄想だというコトは否定しない。

それを分かっていながら妄想癖を直さないのには理由がある。

イマジネーションの翼は無限だ。

何をどう考えようと誰をどう動かそうとオレの自由であって、

My 妄想Worldの王様 or 支配者 or 神様はオレだ。

普段はMy Sweet暴君・嫁を始めとする様々な利害関係人から

いじめられ、虐げられ、軽んじられ蔑まれているオレにとっては

妄想の世界こそストレス発散の秘訣なのであって、

それがなければ現実世界で精神衛生を保てる自信がない。

ストレスフルな現実世界とストレスフリーな妄想世界の間を

フラフラと行きつ戻りつするコトで、

結果的に現実世界の安寧を保てるのだとしたら妄想はもはや、

必要不可欠な自己防御に他ならない。



ただ、オレの妄想は特定の誰かに暴力を振るい、

日頃の鬱憤を晴らすなどという低級なモノではない。

むしろもっと品が良く上質でビロードのような肌触りの妄想である。

そこは間違えないで頂きたい。

具体的な内容については公表を差し控えさせて頂くが、

とにかくオレの妄想はとてもお上品だというコトを強調しておく。

ところが、最近そんな妄想に耽る頻度がめっきり減った。

数年前まで寝る前は妄想Timeと決まっていて、

布団に入ってから眠りにつくまでほぼ毎夜のように

妄想の翼(グローリアス・ウィング)を羽ばたいていたのに、だ。

めくるめく妄想の世界で思う存分生を楽しみ、

明日への活力をみなぎらせていたあの頃が懐かしい。

最近は布団へ入るなりすぐさま強烈な睡魔に襲われ、

気づけば朝を迎えてしまうコトが少なくない。

これを野比のび太現象と名付けようか迷うところだが、

コトの本質は名称にあらず。

別にのび太シンドロームでも野比病でも何でも良いぜ。

肝心なのは、オレのストレス解消をどうするのかというコトにある。



最初に断っておくと、

ストレス発散法としての妄想をしなくなったからと言って、

ストレスがなくなったワケではない。

むしろ結婚という一大イベントを経験して、

心配や不安の種はコレまで以上に増えた。

だから、妄想力がこれまでと同等か

それ以上に発揮されるのならそれは自然の摂理だろう。

が、現実はさにあらず。

ストレスは増えたのに妄想でストレスを発散させる機会が減った。

必然的にオレの中でストレスは溜まる一方であるから、

いつしか堪忍袋の緒が切れてしまいかねない。

これはイカン。

何らかの新たなストレス発散法を考えねば

早晩オレのストレスダムは決壊し、

溢れでたストレスたちは麓の街(=現実世界)に被害をもたらす。

これはイカン。

妄想のできないオレなんてただのオレじゃないか。

これはイカン、のか?

それじゃ。

はいどうも、

自分の頭上に設置されたバケツにどれぐらいの水が入っているか、

それを知る方法なんてどこにもない、

使用上の注意です。

いきなり例え話から入ると読者を置き去りにしちゃうかも?

と、一瞬躊躇したものの結局「まぁ良いや」の一言で

全部片付いてしまうぐらいの注意深さしか持ち合わせていない、

使用上の注意でもありますよ。



とにかく。

きちんと説明はしておきたい。

つまり、自分の頭上に設置されたバケツであるから

その中にどれほどの水が溜まっているかを肉眼で確認するコトはできない。

ひょっとしたら表面張力ギリギリで持ちこたえているぐらいに

水が満々とたたえられているかも知れないし、

逆にカラッカラのゴビ砂漠状態で一滴さえ水は入っていないかも知れない。

同じように、自分以外の他人が今どんな状況で何を思い、

あとどれぐらいのストレスに耐えられ、

あとどれぐらい空腹に耐えられ、

あとどれぐらいのシゴトに耐えられるのか、

他人には分からないというコトでもある。

で、なぜそんなコトを長々と説明しているかというと、

「○○さんって、全く緊張してないように見えますよね」

と言われる機会が多いなぁと、ふと気になったからだ。

あ、○○にはオレの本名が入る。

と、こう書くと先日ムダに長々と連載してしまった

「やる気のなさそうな人の弁明」シリーズを想起させてしまうが、

今回は同じ轍を踏まないのでご安心あれ。



改めて整理する。

・頭上のバケツはどれほど水が溜まっているか分からない

≒他人がどんな真意を持ってどんな状況にあるかは分からない

≒オレが緊張していなさそうに見えても、

 実際はどれほど緊張しているのか分かってもらえない、と。

これはかなり損だ。

どれぐらい損かというと高校時代所属していた弓道部の顧問から、

「お前は本番で緊張しないタイプだから普段通り頑張れ」

とだけ言い渡されてそのまま放置され、

いかにも気弱“そう”で、緊張で舞い上がってしまって“そう”な

後輩部員の指導にばかり熱を入れられてしまうぐらい、損だ。

しかも悪いコトに、

結局本番で緊張してない感を存分に発揮してしまいつつ、

(はた目には余裕で)後輩よりも良い成績を納めてしまったものだから、

その後ますます放置プレイを強いられるおまけ付きである。



だからこそ敢えてココで、

全世界に向けて関係のあるなしを問わず

声を大にして申し上げたい。

『オレ、緊張に弱いんス!!!!』と。

普段は冷静沈着を絵に描いたような外見をしているが、

実はマジで本番に弱いんス。

口の中はタクラマカン砂漠のごとき乾きっぷりだし、

膝は満点大笑いのごとき笑いっぷりだし、

手のひらは釧路湿原のごとき湿りっぷりだし、

繰り出される言葉は四角いタイヤを履いた車のごとき不安定っぷり。

それがナゼか他人には緊張していないように見えるのだから、

不思議なコトもあるもんだ。

アナタの頭上に設置された、

オレというバケツはもうあと一滴の水で溢れんばかりに

一杯一杯なのですよ。

だから、もっと優しくして!

オレに優しくして!

それじゃ。

はいどうも、

上には上がいるんですよ、やっぱり、

使用上の注意です。

どれだけジブンが優れていると思い込んでいても、

事実その人がどれだけ優れていたとしても、

別の角度で人間をぶった切ってみれば

その側面では当人を上回る別の誰かがいるワケで。

そういう意味で、真の意味での全能なる存在は人でない。

まぁ全ての人類に超越する人類は存在しない、

と言い切るコトの乱暴さは重々承知しているけれども。



でも、ここに世界で一番頭の良い数学者・Aがいたとして、

じゃぁAさんより美味しい料理を短時間で作れるとか、

どれだけの子どもから好かれるとか、

面白い文章を次から次に書けるとか、

そういう全く別の側面で考えればAさんより優れた人は

それこそ星の数ほどいるワケだ。

まぁ確かに若干のこじつけ臭はしないでもないけれど、

そもそも「美味しい料理」とは何ぞやとか

言い出したらキリがないので割愛する。

その代わりもう少し論理を補強するとすれば、

数学的なかしこさが果たして善であり是であり有益かと聞かれれば、

いつ何時どんな状況・立場でも常に肯定できる、コトはない。

場面場面で有用な属性というのは行き交う水の流れのように

有為転変であるからして、真の意味で「上」を定義づけるのは難しい。

とにかく、全ての意味で全人類の頂点に立つヒトは理論上存在し得ず、

様々な角度から考えればやっぱり「上には上がいる」と。

その辺のコトを言いたい。



この結論から導き出される寓意としては、

「(上には上がいるんだから)驕らず弛まず努力し続けなさい」

って感じが王道の理解だと思う。

古の先達はなかなかにストイックな性分だったらしい。

例え何らかの道を極めたとしても、

別の道に目を転じれば上がいるのだから、

とにかく休まず努力を重ねろと仰る。

それはそれで大層立派な教訓だし、

現代に生きる社会人としても肝に銘じたいところではある。

が。

正直しんどいワケだ。

皆が皆ストイックにガリガリ努力できるのならば、

誰も苦労はしない。

むしろ、努力できないからこそ「上には上がいる」という

格言が必要なのであって、努力すべしという社会的要請が

格言という形を借りて表出したものに過ぎなくない?

ただ、時代は「ゆとり」「スローライフ」だ。

文字通り身を粉にしてまで戦う雰囲気でもない。

それならばこそ、新しい解釈を提示してみたい。



「上には上がいる」。

「“上”という概念は多種多様」。

「だから、ある一部で誰かに負けても気にするな」。

「別の部分で勝てば良いじゃないか」。

「人間だもの」

あいだみつおの使い過ぎに若干引け目を感じつつ、

そこはかとなく漂う負け犬臭にフタをして、去る。

それじゃ。

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