はいどうも、
自分が思っている以上に自分は子どもだった、
使用上の注意です。
連綿と続いている己の人生をある一点一点で切り取ったとして、
数限りなく繰り返されてきたその点と点を改めて神の視座から見つめ直すに、
数十年の昔からあんまり変わってねぇなぁ、俺って。
突然何を言い出すのかと訝しがる向きも大いにあるだろうが、
詳細は当然のように黙秘するとして。
とにかく、32歳の良い年した大人(おっさんともいう)が
自らの人生を振り返ってみて成長の痕跡を認められなかったという悲しいお話。
この世におぎゃあと生まれてきた瞬間、
人間は「快」と「不快」の二元論に支配されるという。
母体の柔らかで温かな愛を感じることが「快」とすれば、
飢えや寒さ・不安な感じを「不快」とする。
赤子と総称される彼らの中で、自らの意思表示はその二種に集約される、らしい。
「快」であれば満面の笑みをたたえて健やかな寝息を立てていれば良く、
「不快」であればノドを千切らんばかりの大声で泣き喚けば良い。
なんとも良いご身分ですな、赤子ってやつは。
浮世の由無し事から生じる瑣末な、しかし重大なストレスも知らず、
明日の食事さえままならぬ貧乏暮らしの不安も知らず、
ただ己の「快」と「不快」に従い笑って寝て泣いて喚いて。
まぁここで赤子に許された特権を羨んでみても詮のないことである。
それが赤子であり、逆にそれが故に赤子は赤子として遇されるのだから。
そしてそんな乳児も幼児を経て長ずるに、
やがて大人にならざるを得ないのだから。
ところが、困ったことにこの“大人”という概念がまたややこしい。
生物学的(あるいは肉体的)な大人という意味では16~22歳頃が
ピークであると言われているし、心理学的な(あるいは考え方という意味での)
大人といえば明確にいつからという線引きなど不可能に近い。
ただ、ひとつ言えるのは社会的に(あるいは世間的に)大人と言われるのは
20年の年月を重ねた個体であり、それ以降は(程度の差や属している
コミュニティの慣習の差こそあれ)「子どもである」という言い訳は通じない。
たとえどんなに未熟な思考回路を有していようとも、
たとえどんなに幼稚な価値観を擁していようとも、
もはや彼または彼女は子どもとして扱われることなく、
一個の独立した生物存在(つまり大人)として扱われる。
そのとき、内面的な意味で大人になりきれていなくても
外面的に大人として扱われる以上、大人として振舞わざるを得ないのであって。
ある意味ある個体が大人かどうかというのは本人の意識や肉体的・
精神的成熟度合いとは無関係に決定づけられる。
と、そのように考えると社会的な意味での「大人と見られる自分」と、
自己認識上の「大人としての自分」に齟齬なり乖離なりが生じるわけで。
どうやら、まだまだ「快」を求め「不快」を厭う子どもなんだなぁ、俺って。
ふむ、だからどうしたっていう話なんだけれども、
どうせ俺なんて大人になりきれない大人なんだから
大人げなく結論を放り投げてしまいたい。
何となくそんな感じ。
反省。
自分が思っている以上に自分は子どもだった、
使用上の注意です。
連綿と続いている己の人生をある一点一点で切り取ったとして、
数限りなく繰り返されてきたその点と点を改めて神の視座から見つめ直すに、
数十年の昔からあんまり変わってねぇなぁ、俺って。
突然何を言い出すのかと訝しがる向きも大いにあるだろうが、
詳細は当然のように黙秘するとして。
とにかく、32歳の良い年した大人(おっさんともいう)が
自らの人生を振り返ってみて成長の痕跡を認められなかったという悲しいお話。
この世におぎゃあと生まれてきた瞬間、
人間は「快」と「不快」の二元論に支配されるという。
母体の柔らかで温かな愛を感じることが「快」とすれば、
飢えや寒さ・不安な感じを「不快」とする。
赤子と総称される彼らの中で、自らの意思表示はその二種に集約される、らしい。
「快」であれば満面の笑みをたたえて健やかな寝息を立てていれば良く、
「不快」であればノドを千切らんばかりの大声で泣き喚けば良い。
なんとも良いご身分ですな、赤子ってやつは。
浮世の由無し事から生じる瑣末な、しかし重大なストレスも知らず、
明日の食事さえままならぬ貧乏暮らしの不安も知らず、
ただ己の「快」と「不快」に従い笑って寝て泣いて喚いて。
まぁここで赤子に許された特権を羨んでみても詮のないことである。
それが赤子であり、逆にそれが故に赤子は赤子として遇されるのだから。
そしてそんな乳児も幼児を経て長ずるに、
やがて大人にならざるを得ないのだから。
ところが、困ったことにこの“大人”という概念がまたややこしい。
生物学的(あるいは肉体的)な大人という意味では16~22歳頃が
ピークであると言われているし、心理学的な(あるいは考え方という意味での)
大人といえば明確にいつからという線引きなど不可能に近い。
ただ、ひとつ言えるのは社会的に(あるいは世間的に)大人と言われるのは
20年の年月を重ねた個体であり、それ以降は(程度の差や属している
コミュニティの慣習の差こそあれ)「子どもである」という言い訳は通じない。
たとえどんなに未熟な思考回路を有していようとも、
たとえどんなに幼稚な価値観を擁していようとも、
もはや彼または彼女は子どもとして扱われることなく、
一個の独立した生物存在(つまり大人)として扱われる。
そのとき、内面的な意味で大人になりきれていなくても
外面的に大人として扱われる以上、大人として振舞わざるを得ないのであって。
ある意味ある個体が大人かどうかというのは本人の意識や肉体的・
精神的成熟度合いとは無関係に決定づけられる。
と、そのように考えると社会的な意味での「大人と見られる自分」と、
自己認識上の「大人としての自分」に齟齬なり乖離なりが生じるわけで。
どうやら、まだまだ「快」を求め「不快」を厭う子どもなんだなぁ、俺って。
ふむ、だからどうしたっていう話なんだけれども、
どうせ俺なんて大人になりきれない大人なんだから
大人げなく結論を放り投げてしまいたい。
何となくそんな感じ。
反省。