新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

2013年04月

はいどうも、

自分が思っている以上に自分は子どもだった、

使用上の注意です。

連綿と続いている己の人生をある一点一点で切り取ったとして、

数限りなく繰り返されてきたその点と点を改めて神の視座から見つめ直すに、

数十年の昔からあんまり変わってねぇなぁ、俺って。

突然何を言い出すのかと訝しがる向きも大いにあるだろうが、

詳細は当然のように黙秘するとして。

とにかく、32歳の良い年した大人(おっさんともいう)が

自らの人生を振り返ってみて成長の痕跡を認められなかったという悲しいお話。



この世におぎゃあと生まれてきた瞬間、

人間は「快」と「不快」の二元論に支配されるという。

母体の柔らかで温かな愛を感じることが「快」とすれば、

飢えや寒さ・不安な感じを「不快」とする。

赤子と総称される彼らの中で、自らの意思表示はその二種に集約される、らしい。

「快」であれば満面の笑みをたたえて健やかな寝息を立てていれば良く、

「不快」であればノドを千切らんばかりの大声で泣き喚けば良い。

なんとも良いご身分ですな、赤子ってやつは。

浮世の由無し事から生じる瑣末な、しかし重大なストレスも知らず、

明日の食事さえままならぬ貧乏暮らしの不安も知らず、

ただ己の「快」と「不快」に従い笑って寝て泣いて喚いて。

まぁここで赤子に許された特権を羨んでみても詮のないことである。

それが赤子であり、逆にそれが故に赤子は赤子として遇されるのだから。

そしてそんな乳児も幼児を経て長ずるに、

やがて大人にならざるを得ないのだから。



ところが、困ったことにこの“大人”という概念がまたややこしい。

生物学的(あるいは肉体的)な大人という意味では16~22歳頃が

ピークであると言われているし、心理学的な(あるいは考え方という意味での)

大人といえば明確にいつからという線引きなど不可能に近い。

ただ、ひとつ言えるのは社会的に(あるいは世間的に)大人と言われるのは

20年の年月を重ねた個体であり、それ以降は(程度の差や属している

コミュニティの慣習の差こそあれ)「子どもである」という言い訳は通じない。

たとえどんなに未熟な思考回路を有していようとも、

たとえどんなに幼稚な価値観を擁していようとも、

もはや彼または彼女は子どもとして扱われることなく、

一個の独立した生物存在(つまり大人)として扱われる。

そのとき、内面的な意味で大人になりきれていなくても

外面的に大人として扱われる以上、大人として振舞わざるを得ないのであって。

ある意味ある個体が大人かどうかというのは本人の意識や肉体的・

精神的成熟度合いとは無関係に決定づけられる。



と、そのように考えると社会的な意味での「大人と見られる自分」と、

自己認識上の「大人としての自分」に齟齬なり乖離なりが生じるわけで。

どうやら、まだまだ「快」を求め「不快」を厭う子どもなんだなぁ、俺って。

ふむ、だからどうしたっていう話なんだけれども、

どうせ俺なんて大人になりきれない大人なんだから

大人げなく結論を放り投げてしまいたい。

何となくそんな感じ。

反省。

はいどうも、

過去に自分が書いた記事を読み返してみて、


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まるで成長していない…とつぶやいた、

使用上の注意です。

ただ、俺は決してデブではない。

むしろガリだ。



それはまぁさておき、何が成長していないのか。

このブログでも散々自虐ネタにしてきたが、とにかく文章に内容がない。

果たしてそれは誰かの貴重な過ぎゆく代替不可の時間を

むざむざ費消させてまで伝えるべきことなのかと。

何らかの学びや気付きや発見や教訓を得たいと願う読者の

期待を裏切り続けても良心は痛まないのかと。

アフォかとヴォケかと、小一時間問い詰めたい(自分を)。

自分で言うのもなんだが、俺が書く文章には

人生で役立つ知識なんてこれっぽっちもない。

誰かを励ましたり誰かの過ちを気づかせたり誰かに勇気を与えたり

誰かが明日を生きる活力になったりと、そういう要素がみじんもない。

何だか自分で言ってて哀しくもなってきたが、それが現実のようだ。


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ふっ、認めたくないものだな、

自分自身の、若さ故の過ちというものを…。

なんて一人Barの片隅でウィスキーでも傾けたい気分だ。



大体、なぜこんなにもムダで無益な文章を俺は書き続けるのか。


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いや、「坊やだからさ」とかいうツッコミはもう良い。

これ以上漫画・アニメネタでお茶を濁すのは危険だ。

ふざけていないのに「ふざけているのか」と怒られたくないし、

何よりも知的財産権とか著作権的な恐怖がやってくる。

だから少しマジメに真剣に本気で考えてみたい。

なぜ、俺は意味のない文章を書き続けるのか。



…。




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いや、「坊やだからさ」とかいうツッコミはもう良いんだって。

しかも微妙に作品が変わってるし。

ガン○ムをオマージュしたケロ○軍曹をさらにオマージュしたブログ、って

もはや何がなんだかよく分からん。

いい加減にしないと青い服着たこわ~いオジサマが特殊警棒片手にやって来る。


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※画像は想像図



でもさー、どうせ考えたって大した理由も思い浮かばないんだし、

どうでも良いような気もするよねー。

ただただ書きたいだけなんだよ、俺って、意味のない文章を。

それ以上でもなければそれ以下でもないわけよ。

誰かに感動を与えたいとか笑いを届けたいとか、

そんな大それたことはできないんだから、

自分にできることを好きなようにやってるだけなんだよ。

取り敢えず、無性に自分が可哀想になってきた。


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温かい飯でも食って寝よう。

俺、どうなりたいんだろう…。

それじゃ。

はいどうも、

自分の将来をもう少しきちんと考えた方が良いと思い始めた、

使用上の注意です。

32歳にもなって何を今更って言われるだろうし、

そもそも自分自身に言ってやりたいけど。



これまで、“悲観的楽天家”というややこしい性格の俺は、

瞬間瞬間で暗く冷たい深海のようにネガティブな考えに溺れても、

最終的には「開き直り」という伝家の宝刀を抜いて走ってきた。

考えても答えの出ない問題は考えても仕方がない。

なぁに、戦国時代じゃあるまいし死ぬことはないさ。

やることをやってればいつか海路の日和あり。

とにかく目の前の課題を全力でこなしていこうぜ、的な。

まさに合戦でいう「突撃」。

一人総火の玉。

それで何とかなってきたし、

結果として「これまで何とかしてきたんだからこれからも何とかできるさ」

という変な自信まで芽生えてしまった。

どうもそれがイカンような気がしないでもない。

だって、年齢とともに気力・体力が衰えてきたんだもん。



まぁどれだけ可愛く言ったところで衰えという現実は冷たいもので、

確実に着実に俺の命を削っている。

それがどういう結果をもたらすのかというと、

開き直って戦場を駆け抜けようにも気持ちと体がついてこない。

つまり、ムリができない。

よって、目の前の課題すら解決できずジリ貧っていう大惨事。

もっと言えば越えなければならない壁に対して全力で拳を叩きつけ、

足場を作る正面突破しか能のない今までの俺なら、

早晩行き詰まる。

足場を作るチカラさえない俺に、どうやって壁を乗り越えろというのか。

若さに任せて全力で走っていれば壁を越えられた時代は

とうとう終わりを告げようとしている。



だからこそ、きちんとリスクを把握してそれを回避する、

もしくはヘッジする思考力を身に付けねばならん。

そして正面突破以外にも、壁を迂回したり地面を掘り返して

壁を根本から崩壊させたり、攻め手のバリエーションを知るべきだ。

いよいよ俺も、戦場で一番槍を競う若武者から

老獪な戦術で部隊を手足のように率いる老練な侍大将へ、

人生のステップが上がってきたのかも知れん。

合戦は、戦場で干戈を交えるその前からすでに始まっている。

敵方の武将に寝返りを働きかけたり敵の領地で騒乱を起こしたり、

秘密裏にキーパーソンを暗殺したり根も葉もない噂を流したり…。

正面突撃一本槍の猪武者は卒業するのでござる!



関係者各位に申し上げ奉る!

明日より我は、権謀術数を駆使する清濁併せ持った社会人となる!!

ゆめゆめ寝首をかかれないよう留意されるが良い!

フハハハハハハッッッ!!!!

何か途中からよく分からない路線に脱線した気がしないでもないが、

それもこれも策士な俺の甘い罠っ!なのですか?

それじゃ。

はいどうも、

クリエイティブの未来はどっちだ?

使用上の注意です。

いや、まぁそんな大上段に構えても大した結論は持ちあわせていないんだけれども。

もっとこう卑近な、身近な、身の回りの世界に限定して、

クリエイティブ業界を志す学生諸君に伝えたい。

そんな気分。



ちなみに前回は、取り敢えず最近は制作物の相場が右肩下がりを続けていて、

過去水準の売上を計上するには量をこなすしかなく、

結局心と体をすり減らして現状維持が精一杯、というのが現実だ。

という話をしてみた(つもり)。

クリエイティブの現実 ~絶望編~」。

だからこそ軽い気持ち(例えばカッコ良さそうとか華やかだとかいう理由)で

クリエイティブ業界を目指す学生には、「やめとけ」と言わざるを得ない。

ただ、それではあんまりにもあんまり。

そして同じ事は自分自身にもいえるのであって、

ここで何とかしないと徐々に茹でられていくカエルのごとく、いつの間にか死ぬ。

それはいかん。



正直、世の先達たちがとっくの昔に導き出した結論ではあるのだが、

結局は「高付加価値路線」に転轍しなければ生き残れないんだろうなぁ、と思う。

だって、コスト競争は無限の広がりを持っているのだからして、

単純な体力勝負で最大手に勝てる道理はない。

だからこそライバル企業には実現できない何かを付加して、

相場よりも高い金額でも発注してもらえるようになるしかない、きっと。

こうやって改めて書いてみると本当に普通だなぁ、これ。

まぁ良い。

とにかく身近なクリエイティブで考えてみよう。



自分がこの仕事をしていて気持ち良い瞬間のひとつ。

それは、担当者の「他の企業より高いけど○○さんにお願いします」

っていう言葉を聞いたとき。

あ、○○には俺の本名が入る。

ここにきてさらにベタな展開だなぁと思うけど、まぁ良い(2回目)。

競合企業にはない自社(あるいは自分)オリジナルの価値を乗せられるか。

それが生き残りのカギだと思う。

他の人より熱心、他の人より分かりやすい、他の人よりかしこい、

他の人より本質的、他の人より論理的、他の人より面白い etc…

別に何でも良いんだよ。

ただ、それが「ほとんと同じだけど強いていうなら」レベルだとまずい。

明らかに競争相手を圧倒する程度に、上回る必要はある。



ここまでを踏まえて、クリエイティブに挑戦したい、

広告業界に就職したい学生(その他の若人)に告ぐ。

どんなに優れたクリエイティブ能力も、仕事にならなければ無価値だ。

お金を産まない限りキミたちの能力は会社にとって必要ない。

だからこそクリエイターになりたいのなら、人間力を磨き給へ。

そして人一倍勉強して、人一倍遊んで、人一倍努力し給へ。



相場の下落に対抗するには量をこなすしかない。

それがイヤ(あるいは無理)なら付加価値を高めるしかなく、

そのためには人一倍努力しなきゃならない。

そう、結局クリエイターはしんどいのよ。

それを楽しめる(自信がある)なら、エントリーどうぞ。

個人的には、オススメしない。

はいどうも、

ブログのヘッダに記載している通り

しがないプランナーをやっている、

使用上の注意です。

「プランナーナニソレ美味シイノ?」と思う人がいるだろうから少し説明。

プランナーとは、(主に広告や情宣物の)制作業務において

到達目標を設定して発信すべきメッセージやコンセプトを検討・決定し、

コピーライターやフォトグラファー、デザイナーなどと協力しながら

全体のハンドリングを行う仕事のこと(多分)。

会社や業界によってはディレクターとか、

クリエイティブ・ディレクターとか呼ばれることもある。

まぁ俺の場合、プランナーと名乗りながらコピーも書くし

アートディレクション(乱暴に言えば見た目の管理)もするし、

場合によっちゃあ写真も撮るし、簡単なコーディングもしちゃうし、

もはや何でも屋ポジション。

それが俺。

で、今日はそういう様々な側面を持つ俺が、

(主に就活中、あるいは就職を考えている)大学生の諸君へ言いたいことがある。



仕事柄大学生と話をする機会がそこそこありましてな。

で、一応広告とかクリエイティブとか呼ばれる世界に身を置いている俺に、

「広告業界に入りたいんですけど」「クリエイティブの仕事がしたいんですけど」

「文章で飯を食って行きたいんですけど」「コピーライターになりたいんですけど」

とのたもう大学生たちは、

「広告業界(クリエイティブ)で働くのって、どうなんですか?」

と問いかける、俺に。

ここで「どう?」の意味を突き詰めると話が終わらないので今回は、

「クリエイティブ(主に文章)で飯を食うこと」について考えてみたい。



結論から申し上げれば、「やめとけ」である。

仕事は楽しい。

それはもうこの上なく楽しい。

自分が書いたもの、考えたもの、作り上げたものが、

それこそ数万・数十万単位で誰かの目に触れるのは、快感だ。

己の思考が他人の人生に一石を投じ、生じた波紋はやがてさざ波となって

やがて彼または彼女の人生を変えていく。

なんと素晴らしい仕事だろうか。

が、それでも安易な気持ちで広告・制作業界に就職するのはオススメしない。

なぜか。

単価の下落が止まらないから。

やってもやっても売上は増えない、むしろ減る。

単価が下落するなら量でカバーするしかない。

若いうちは良い、多少の無理も効く。

が、そうやって文字通り命をすり減らして文章を紡ぎ出しても、

将来単価が上がることは恐らくない。

というのも、様々な局面でシステム化が進んでいて

素晴らしいクリエイティブを追い求める努力より

効率的な収穫方法(クリック率の改善や申込み率の向上)がもて囃されるから。



まさに労多くして益少なし。

制作を目指す若者にとっては身も蓋もない結論。

そこに救いはないのか?

以下次回。

はいどうも、

未来が見えないから頑張れないのか、

頑張っていないから未来が見えないのか、

どっちが正解かを考える、

使用上の注意です。

自分の未来がどうなるかなんて誰にも分からない。

でも、明るい未来が待っていると確信できれば目の前の苦行にも耐えられる。

と同時に「とにかく頑張れば未来は明るくなる」かも知れない。

だから後先考えず、我武者羅に頑張ってみるしかない。

ただ、「未来予見→頑張る」論者に従えば成果が見えない限り頑張れない。

そして「頑張る→明るい未来」論者に従えば果ての見えない苦行を強いられそう。

どっちも正しいように思えるし、どっちも何だか微妙な感じ。

どうすれば良いんだろうか。

まさに鶏が先か卵が先か。

努力が先か報酬が先か。



人間は即物的で打算的な生き物だ。

とすれば目の前に成果という人参をぶら下げないと走らない。

そんなことを考えているから頑張らないんだ。

とにかく脇目も振らずに打ち込んでみれば、明るい未来が手に入る。

と言われてもやっぱり、よく見えない闇夜に障害物競走はやりにくい。

先が見える、あるいは確信できるからこそ対処法も考えられる。

状況把握も障害予想もできない状況で、全力疾走なんて怖くてできない。

結局議論は堂々巡り。

同じ所をぐーるぐる。

やがてバターとなって朽ち果てるか、あるいは座して死を待つか。



ここで議論を結論へと落とし込む、乱暴に、主観的に、独善的に。

個人的には後者、つまり「つべこべ言わずに走りやがれ」派に与してみたい。

どんな報酬が手に入るのかも、どんな果実をもたらすのかも、全ては未来予測。

だとすればその報酬も果実も画餅に帰す可能性がないとはいえない。

ノドから手が出てダルシムよろしく伸びたとしても、手に入らない可能性はある。

それなら何にも考えずにとにかく走ってみれば良いじゃない。

その先がたとえイバラの道だろうがぺんぺん草も生えない荒野だろうが、だ。

少なくとも今いる場所“じゃない”場所へ行くことができる。

それで良いじゃない。

そんな感じ。



自らの未来に悩む若人よ。

現実という巨大な壁を目の前にして怯懦に震える子羊たちよ。

案ずることはない。

ただただ走ってみるが良い。

人生は有限なのだから、悩んでいる暇はない。

刻一刻と寿命は付きていくのだから、立ち止まっている暇もない。

ただただ我武者羅に、脇目も振らず何も考えず、走ってみるが良い。

さすればそこには、かつて見たことのない景色が広がっているはず。

新たな景色はキミたちに、新たな知見を与えてくれるだろう。

そしてそこに至る過程の中でキミたちは、貴重な経験を得るだろう。

そうした知見なり経験なりが、また新たな報酬をもたらすことだろう。



よし、会社的にスキのない結論へ落とし込めた。

と、自画自賛して去る。

ちなみに、このポジティブはフィクションです。

実在の人物・団体・組織とは一切関係がありません。

それじゃ♪

はいどうも、

春は出会いの季節だけど別れの季節でもある、

使用上の注意です。

何を当たり前のことをって感じだけど、まぁ事実だし。

進学・就職・異動・転勤その他諸々の事情があって人は出会い、そして別れる。

というか、別れてから、出会う?

どっちかというと別れる方が先だわな。

ただまぁ、この世におぎゃぁと生まれることは出会いであって、

南無阿弥陀仏とこの世からサヨナラすることは別れであるからして、

出会ってから別れるのが人生と、言えなくもない。

出会ってから別れるのか別れてから出会うのか、

もはや卵が先か鶏が先か、だ。

とにかく、春は出会いと別れの季節なのである。



かく言う使用上の注意こと俺だって、

数多の出会いと別れを経て今という瞬間にたどり着いている。

中には涙なくして別離の苦しさに耐えられぬ惜別の別れもあった。

中には何の感情もなく「あぁいなくなるの」程度の軽い別れもあった。

中には「やっといなくなってくれるのか」とさえ思う待望の別れもあった。

そうした様々な別れの一方で、出会いを重ねる俺。

中には一目見た瞬間から恋に落ちた一目惚れの出会いもあった。

中には無感動に「あぁ宜しく」程度の軽い出会いもあった。

中には「何じゃこいつ感じ悪ぅ」とさえ思う招かれざる出会いもあった。

果たしてここまで表現のバリエーションを展開する必要が

あったのかどうかという疑問がないではないけれど、

書いてしまったものは仕方ない。

読者の貴重な時間をいたずらに浪費させてしまった我がミステイクを

悔やむこともなく、気にせず書き進めてみる。



この世に生を受けて早32年(と少し)。

春に限らず数えきれないほどの出会いと別れを経験しながら、

様々な成功と失敗を我が身に刻みつけてみて思うに、

人生というものは本当に“点ではなく線”なんだなぁと。

たとえいっとき調子が良かったとしても、次の日には絶賛不調の大嵐。

そしてまた次の日には雲ひとつない青空のように晴れ渡る。

人と人の関係もまたしかり。

たとえいっとき犬猿の仲に陥って血で血を洗うような闘争を繰り広げても、

次の日にはケロッとして酒を酌み交わす。

そしてまた次の日には思い出したかのように戦火を交えている。

結局は、その一瞬一瞬がどうであろうとあまり関係がない。

最近そういう思いを強くしている次第だ。



春。

出会いと別れの季節(または別れと出会いの季節)。

たとえどんなに悲しい別れがあろうと、それも一炊の夢に等しい。

次の刹那には人生を激変させる出会いがあるやも知れず。

大切なのは日々目の前に現れては消える

出会いのチャンスをしっかりと逃さないこと。

そうすればいつか道は開ける、きっと、多分。

あと、幸せな出会いを掴んで雲にも登るような気分で浮かれる輩には、

その後の暗転人生を願って止まない。

それじゃ。

はいどうも、

過去に書いた「虚無感に対する正しくない対処法」が

やたらとアクセスを集めていることに狼狽中、

使用上の注意です。

例によって例のごとく特に内容のない内容を

クレープのごとく薄く広く伸ばして文章量を稼いだ

しょうもないエントリなのに、だ。

つまるところ

虚無感は暇な時にやってくる。

 やる気のない状態は仕事の締め切りが迫れば解消される。

 従って虚無感を解消するには仕事に追われるしかない。

 でもそんな人生は嫌だなぁ。


としか言ってないエントリなのに、だ。

一体どういう風の吹き回しなのか。



思うに、「虚無感」で検索する人が多いのだろう。

と思って「虚無感」でググってみたが、一向にこのブログはヒットしない。

世間では自分が思ってる以上に虚無感に悩む子羊が多いのかと

この俺の純粋で脆いハートを悩ませてみたが、そうではないのか。

それなら一安心と思いきや。

「虚無感 対処法」でググってみたら5位にヒットぉぉぉぉ!!

そうかそうか、みんな悩んでいるんだね。

何をする気にもなれない、食事でさえ億劫なのに仕事なんてもってのほか、

叶うことなら何もせず点滴に我が身を委ね思う存分寝て暮らしたい。

しかし、現実はさにあらず。

嫌な上司に嫌な同僚嫌な部下、嫌な客から嫌な取引先、嫌な仕事に嫌な付き合い。

無限大に浮かんでは消える泡沫のように“イヤなこと”を抱える毎日…。

そりゃぁ虚無感にも襲われるでしょうよ。



で、そういう心にダメージを背負った迷える子羊たちに

使用上の注意ことオレはどんなアドバイスを送ったのか…。

虚無感を解消するには仕事に追われるしかない。(前掲参照)」。

う~ん、救いようのない結論。

誰に何の救いをももたらさない無慈悲な現実。

繊細なハートにぱっくりと口を開いた傷口に塩をすり込む冷酷な行為。

使用上の注意ことオレは、なんと冷血な人間なのだろうか。。。

おぉ、我がことながら恐ろしい。

使用上の注意、恐ろしい子っっっっ!!



だが、ちょっと待って欲しい。

オレだってちゃんとウォーニングを発している。

そのエントリは虚無感を決して解消してはくれないと、

どれだけ読み込んでもアナタの傷を癒すことはないと、

アクセスするだけ時間の無駄でしかないと、

きっちり宣言しているではないか。

虚無感に対する“正しくない”対処法。」(ダブルクォーテーション筆者)って。



インターネットは玉石混交。

玉と輝く救いの欠片あれば、石と転がる駄文あり。

汝、騙されることなかれ。

汝、心落とすことなかれ。

汝、タイトルを見落とすことなかれ。

信ぜよ、されば救われる。

アーメン。

はいどうも、

たまぁに思うわけですよ、

「オレの人生、これで良いのかね?」って、

使用上の注意です。

まぁ考えたところでタイムマシーンも若返り薬も発明されていない現代では

全く意味も意義も必要性もない思考実験なんだが、

それでもふと思うときがあるわけで。



ベタに「あの時こうしておけば」とか「もっとこうできたはず」とか、

そういう後悔系の袋小路にさまよいこむこともあるし、

「これからこうしていこう」とか「次はこうしよう」とかの

前向き系未来予想図を描くこともある。

ただ、いずれにせよ人生は一寸先でさえ闇らしい。

目の前に広がる景色も結局は一瞬の陽炎に過ぎず、

次の刹那には180°異なる色になることさえあるのであって。

考えても考えても答えなんてないし答え合わせだってできない。

何となく「これで良かったんだろうなぁ」とか

「やっぱ失敗したなぁ」とかいう後の祭り系後悔しか能のないワタシ。



じゃぁどうしろと?

と、聞いてみても返事があるわけでもなく、

ただ一人誰もいない部屋でぼんやりと虚空を眺めるしかない。

だって、正解が分からんのだから。

いや、正解が欲しいわけではないんだけど、

少なくとも後悔のない人生を送りたい。

が、どう生きてみても後悔は泉のようにこんこんと湧き出てくるわけで。



あと、「取り返しのつかない失敗」ってのはよく聞くフレーズだけど、

人生が不可逆な時間の連なりである以上

全ての失敗はもはや取り返し不能、と言えなくもない。

挽回も原状回復もリカバリも、結局は過去のマイナスを何とかして

ゼロ以上にしようと労力を傾注した結果でしかなく、

本来であればその労力はより多くのプラスを得るために

注ぎ込まれるはずのエネルギーだったんだから、

その時点でオレの人生のトータル・ベネフィットは減少せざるを得ない。

そう考えたら(金銭的・非金銭的問わず)人生の収益的には

失敗をしないに越したことはない、でしょ。



たまぁに、「失敗のない人生はツマラナイ」とのたまう輩に出くわして、

そのたびに心のなかで密かに思う。

「んなわけないじゃん」って。

たとえツマラナイと謗られようが失敗のない人生では

損失に対するリカバリが不要なのであるから、

全てのリソースをポジティブなベクトルでチャレンジに費やせるわけで、

そんな人生は右肩上がりじゃないか。

当然、失敗するのが怖くて何も決めない動かない進まないのは愚の骨頂だと思う。

でも「失敗を恐れない挑戦」と、「やむを得ない失敗の肯定」とでは、

大きな違いがある、はずなのよ。



…。



まぁアレだ、何となく後悔について書き始めたのに

満足なオチもつけられずに終わってしまう時点で、

失敗してんだよ、オレは、きっと。

いや~、取り返しのつかない失敗をしてしまった。

それじゃ。

はいどうも、

“愛”なんていう面倒臭いテーマはそろそろ終わらせたい、

使用上の注意です。

どう書いても結局万人の理解は得られないし、

どう考えても人それぞれだから。

まぁそうは言っても自分で始めたエントリだし、

何とか無理矢理にでも終わらせるべく頑張る。



↓↓↓ここから前回までのあらすじ↓↓↓

■第1回

昔の使用上の注意=愛情表現=関係性メンテナンス要素

∵オレからの愛情を疑う女子への対処法の一つ

■第2回

愛情表現=メンテナンスツール

∴愛という感情に対する考察を怠る

+アガペーとか言われてもピンと来ない

∴好み→好き→愛、という浅い理解のまま生きるオレ

→ところが、仕事上“愛”を考えるはめに!

↑↑↑ここまで前回までのあらすじ↑↑↑



正直、商談で「ウチの会社は“愛”を育みたいんです」とか言われても

心のなかでは「?」が乱舞してしまっていた。

「愛ってのは要するに好きの延長だから、え?恋愛を広めるの?」

とか、激しく的外れかつ失礼な思考を繰り広げていたわけである。

もちろんその会社の意図する“愛”とはそんな俗っぽい哲学ではなく、

まさにギリシアの哲人たちが日夜議論を戦わせた(想像)

本来的で根源的な意味での“愛”であって、愛欲とか性愛とかではない。

ただ、分からないで済ませられないのがプロフェッショナルな社会人。

何とか自分なりにクライアントの言う“愛”を理解して、

それを踏まえたコンセプトを打ち立てねばならん、雄々しく、猛々しく。

少なくとも、愛=好きの延長、好きの強化ver.とかいう

中二的思考からは一刻も早く脱却しなければならない状況ですよ。



三十路を過ぎて尚、中二レベルで思考が止まっていた自分を恥じる暇もなく、

必死こいてイロイロと調べてみるに、ひとつの答えへたどり着いた。

何を調べていたのかや、どういう経路を辿って結論へ至ったのかは、

この際良いじゃない。だって説明するのが面倒臭い。

とにかく、今ここに、オレの辞書はアップデートされた。

恋だの愛だのに悩む健全なる青少年諸君。

つい最近まで諸君らと同じ地平で苦しみもがいていたこのオレが、

迷える子羊たる君たちに啓示を与えよう。

愛とは、愛してるとは、こういうことだ!!



愛とは…いつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。

これよ、これ。

ヤりたいとか抱きたいとか、そういう下劣な妄執からは早く超越したまえ。

欲望とか欲求とか低次元なリビドーから己を解放するのだ。

そして君たちのそばにいる人たちを大切に思えたなら、

それが“愛”なのだ!!(ドヤァ



え?ここまで大上段に構えながら長々と引っ張って、

オチはWikipediaかよって?

汝、使用上の注意を許し給え。

汝、使用上の注意を愛し給え。

さすれば未来は開かれる救われる解き放たれる。

アーメン。

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