新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

2013年10月

はいどうも、

幸せってなんだっけ?

使用上の注意です。

確かだいぶ前にも同じような書き出しで始めて、

美味い醤油があることではないって書いたような気がするが気にしない。

同じ人間が書いてるブログなんだから

長いこと書いてればネタがかぶることだってある。

ねぇ、そうだろう?(ファンキーモンキーベイビーズ風)



ファンモンといえばDJさんが実家の住職を継ぐとかどうとかで

解散しなさったけど、個人的にはあの甘ったるくて前しか見てない

歌詞とか世界観がどうにも苦手だ。

常にポジティブな言葉で応援され続けるのも結構苦痛なんすよ、俺の場合。

だって短いようで長い人生、他人の言葉を素直に受け取れるときもあれば

裏返してこねくり回してひねってみたくなるときもあるじゃんね。

そんなときにあの暑苦しいボーカルが暑苦しい感じで

幸せを抱きしめよう”とか“生きてる喜びをずっと忘れないで”とか

絶叫しててもさ、本当に俺のことを思ってくれてるなら

とにかく今は黙っててくれ放っといてくれ、って思うわけよ。

あ、音楽利権ヤクザJASRAC先生に遠慮して詳細な歌詞の引用は控える。

まさに小さな親切大きなお世話。



いや、別に彼ら自身と彼らの楽曲、

そして彼らのファンをけなすつもりは全くなくて、

ただ俺という個人に落とし込んだ時の素直な気持ちを書いただけなので

その辺りはどうかご理解を。

思想信条の自由と表現の自由による加護が俺にももたらされんことを願う。



話を元に戻そう。

“幸せ”とは何か。

そもそも、“幸福”っていうのは目に見える形で

どこかにパッケージされて並んでる、もんではない。

少なくとも幸せ感が溢れ出さんばかりのCMを展開している

セブン&アイホールディングス
が取り扱いを開始したなんて話は聞かない。

だからこそ、目に見えないが故に、分かりにくい。

と同時に、幸せってのはある状態を指し示す言葉なんだけれども、

ある状態ってのは人生という連続した時間の中で捉えれば一瞬の刹那なのだから、

幸せ=状態が永続するわけでもない。

古の賢人たちが残したように、一瞬先は闇。

「幸せだな~」なんてつぶやきながらウクレレを弾いていた次の瞬間、

乗っていたヨットが転覆して哀れ海の藻屑、、、なんて展開もなくはない。

そうなると余計に“幸せとはなにか”を結論づけるのが難しいわけですね。



と、まぁ例によって例のごとくムダな思考の迷子を続けていた俺の目に、

こんなページが飛び込んでくる。

ポジティブな人になるための、シンプルな12の方法

幸せとは、自分が良い方に変化した時に感じるもの。このことを肝に命じよう。
言い換えれば、固定された1つの状態が「幸せ」ではないのだ。そんなものを
求めても失望するばかり。常に前向きでいることが、幸せになる鍵だ。


つまり幸せとはある一点における固定された状態ではなく、

連続する変化の中で感じるものだと。

ふ~むなるほど、と。

何だか腑に落ちたので、紹介してみた。

なぜそんなページを閲覧していたのか、

詳細には触れずとっとと寝る。

それじゃ。

はいどうも、

特に書きたいことがないけどブログを書くのが俺のクセ、

使用上の注意です。

まぁあれよ、なくて七癖ってやつね。

他にも複数のクセが確認されてはいるが、

その全容はいまもって明らかになっていない。

これを世に、使用上の注意の七不思議というとか、いわないとか。

うん、言わないんだけどね。



それはまぁともかく、今日は台風である。

窓の外に目を転じれば風がごうごうと唸りを上げ、

雨がばらばらと叩きつける荒天の夜。

こんな日はただでさえネガティブシンキングの使い手、

やり手のネガティバー使用上の注意こと俺の頭の中で

むくむくとネガティブな思考が頭をもたげてくる。

頭の中で、頭がもたげるとはこれいかに。

いや、別に答えは求めていませんけどね。



それにしたってしかし、話を変えよう。

最近の俺は、

これでもかと吹きつける逆風は台風のもたらす風のごとし。

己の将来の行く末が曖昧模糊として見えぬこと林というか森のごとし。

それでも負けてたまるかと歯を食いしばって働いても働いても

我が暮らし楽にならずであるからして家計の車は火のごとし。

次々とうず高く積まれる案件と難題と課題と懸案と苦悩と懊悩は山のごとし。

まさに一人風林火山状態。

というか、風森火山というのかい?

こうやって誤った知識を世に広く知ろしめるのもまたをかし。

と同時に、片腹痛しとでも言われるんだろうね。



う〜ん、もういいや。

なんか疲れたからとっとと今日思ったことの結論書いて寝る。

今日思ったこと。

結局誰だって自分のやってること考えてること

言ってること思ってることが正しいかどうか、

自分では結論付けられない、はず。

だってそれが正しいかどうかは状況や場所や時間や地位や立場、

その他諸々の変動要因に大きく左右されるのであって、

絶対的な正解なんてあるはずもないんだから。

それでも何とか答えに近しい何かを選ぼうと頑張るんだろうけど、

やっぱり最終的には自分の感覚であったり尊敬できる誰かの承認であったり、

とにかく”正しい”と思えるだけの外形を備えた何かに頼るしかない。

人によっては神という概念上の存在かも知れないし、

また別の人によっては上司とか先生とか師匠とか呼ばれる存在かも知れない。

それが自分の内なる自分に依拠できればこれほど心強いことはないんだろうけど、

人は(というか俺は)そんなに強い存在じゃない。

たまには大きな安心できる何かによっかかって思考回路を停止したいわけですな。

自分で考えなくても正しい答えが与えられる授けられる下される。

これはもう、ある意味天国のようなものかも知れん。

正しいか正しくないかなんて終わりのない問いかけから開放されるわけだから。



ま、それが全てだなんてこれっぽっちも思っちゃいないし、

それもまた正しいという保証はないのであって、

最後はやっぱり自分の脳味噌に聞くしかない。

そう考えると少しげんなりする初秋の深夜。

台風が過ぎ行き、風が少し体に染みる。

寝よう。

今回もヤマなしオチなしイミなしの、ヤオイエントリ。

それじゃ。

はいどうも、

人生は思ったよりほろ苦い、

使用上の注意です。

数十年前、思ったとおりに人生が運ぶだなんていう

甘っちょろい考えをウン億光年の彼方に捨て去りはしたものの、

こうまで思わなかった方向へ人生が転ぼうとは誰が予測できようか。

望んだ方向とは逆方向に人生というサイコロが転がり始めるシーンを、

何度呆然と見てきたことだろうか。

それでもなお、人生は裏目を示し続ける。



さりとて、己の境遇を呪ったところで事態は何も変わらず、

ただただ悠久の大自然のごとく時が過ぎていく、有給を消化させながら。

どれだけ己の不遇に汲々と苦しんでいても、救急車など誰も呼んでくれはしない。

それどころかほうぼうから上がる逆境という火の手に追われ、

ほうほうの体でその場を逃げ去るのみ。

そうそう、結局人生なんてそんなもんであるからして、

早々簡単に己の欲求が叶ったり想像した未来が手に入ることなんてない。

全てはこの世を創造したもうた神のみぞ知る。



と、考えてみればみるほど

どうしようもない現実が鈍器のようなものに思えてきて、

強く殴りかかってきかねない勢いで俺の方に迫ってくる。

非常口はどこだとバールのようなものでこじ開けるべく悪戦苦闘するも、

この世のどこにも脱出口なんぞ用意はされていないのだから、

現世はまさに非情愚痴。

しかし、それではこの世におぎゃあと生を受けた意味がない。

せめてなにがしかの救済措置があってもよかろうもんと、

我ながら思わず思わずにはいられない。



ただ、そこもまた非情な理に従って予測するに、

俺が望む俺の救済はそれを俺が望んでいるからこそ俺の望みとは裏腹に

俺の望まない方向へ誘う力に抗いきれず、もたらされないのがお約束。

であるならば、もはや自らを救うのは自ら以外にない。

そこは立派なイチ社会人として、セルフ・コントロールがモノを言う、早見優。

うん、ごめん、思いついたから言ってみただけ。

他にも山田優とか佐藤優とか候補に上がったけど、

ここは先人たちへのリスペクトを込めて、最も古典的な選択肢を選びとってみた。



閑話休題。

整理する。

我が人生はどうやら裏目の星の下にある。

が、しかし、そうした境遇を呪ったところで誰も助けてくれない。

しかも裏目の星の下にある以上、救済を望めば望むほど救済は遠ざかる。

それならここはもう、自己変革にこそ死中の活を求めるべき。

よし、それでいこう。

なお、救済は手に入らなくてもキューサイの青汁なら手に入る。

有償だけどね。

世の中金よ。銭よ。キャッシュよね。

それじゃ。

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