新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

2014年11月

はいどうも、

最近読書ペースが早くなっている、

使用上の注意です。

まぁ話せば長くなるのだが色々とアレがソレした結果、

読書時間が増えた。それも圧倒的に。

今までの自分は来る日も来る日も仕事がテッペンを回り、

倒れこむように帰宅しては僅かな休息をむさぼり、

そしてまた翌朝には何食わぬ顔して出勤する毎日だったのであるからして、

いつ本を読めと?的な。

ただ、そんな話はどうでも良い。

それもまた今では良い思い出に近いので。

ソレがあるから今がある、と本気で信じてもいるし。

これ以上は語るまい。



で、だ。

読書量が増えると当然お財布さんがポロポロと涙を流すハメになる。

なぜか?

お金さんがハイペースで旅立つので、

あっという間に俺の財布はウルトラ・ライト・サイフに変身するからだ。

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※これはウルトラ・ライト違い

ここで俺は閃いた。

「そうだ、古本屋に行こう」

と、至極当然の結論に落ち着き、喜び勇んで古本屋のドアをくぐる俺。

そこに広がっていたのは本好きのためのエルドラド。

1冊100円(税抜)という夢の様な価格で、

少し恥ずかしそうに並ぶ本たちの姿である。

俺の心は早鐘のように鼓動を重ね、雲の上を歩くように浮き立つ足。

目はお目当ての本を探してアッチへキョロキョロ、コッチへキョロキョロ。

これは噂のキョロ充かと(誤った)独り合点を打ちながら店内を彷徨う俺。

しかも最近の古本屋は、在庫処理やらなんやらで10冊以上の購入なら

70%オフとかいう狂気の沙汰としか思えない価格設定で勝負してくるから困る。

結果、1回の買い物で20冊以上の本を購入する俺。

で、むさぼり読む俺。



ところが、だ。

かつて読書に感じたような高揚感とか満足感とかカタルシスとかが、

イマイチ薄い。

来る日も来る日もページを捲っては小さなため息をつく。

「なぜだ?なぜこんなにも感動が薄い?

 俺はもっと心動かしたいんだ!もっと心震わせたいんだ!

 もっと心揺さぶりたいんだ!!!」

まぁ叫ぶだけでは能がない。

ここはひとつじっくりと原因を考えてみようじゃないか、ワトスン君。



以前:本は書店で新品を購入→毎回何がしかの感動

現在:本は古本屋で中古品を購入→何か違う

以前ならば平均して80点以上の感動を手に入れていた、ように思うが、

今は良いとこ65点。

ひどい作品になると「二度と読むか!」となり果てぬ。

なぜか。

以前と現在を比較するに、やはり違いは新品なのか中古なのかということ。

しかし、新品だから感動できて中古だから感動できないなんてことはない。

良い作品は一度誰かに読まれていようがいまいが良いのであって、

属性の変化によってその価値が揺らぐことはない、はず。

ふむぅ。



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キュピリリ~ン!

ここで俺は閃いた。

新品=高い=金に限りがある=購入する書籍は厳選する=ハズレが少ない

中古=安い=たくさん買える=守備範囲を広げて買っちゃう=ハズレも多い

そうか、そうなのか、そうだったのか!!

読書家としてまたひとつ階段を登った気分である。

曰く、『古本といえども購入の選択ハードルは下げるべからず』。

書を求めんがため、書を捨てて街へ出た甲斐があった。

さぁ、今日も今日とていざBOOK OFFへ。

よ~し、今回も順調に無駄な時間を過ごしたぜ。

それじゃ。

はいどうも、

東京からこんにちは

使用上の注意です。

ひょんなことから東京出張が決まり、順調に予定をこなしたが

夕方に少し時間が空いたところで酒を飲み交わす遠方の友もなく、

ただ一人値段の割に量の少ない晩飯をぼそぼそと食べていたら、

あまりの人脈のなさに少し愕然とした。

どんだけ友達すくねーんだよ、と。



まぁそれはともかく。

わざわざ東京まできてブログ更新かよと思わないでもないが、

めったにない東京出張だからこそそこで感じたこと思ったことを

ゼロとイチの電子データとしてこの世に残しておきたいような、

そうでもないような。

多分、東京に来たという非日常感に浮かれているんだ、俺は、多分。

だからとんぼ返りという悲劇に仕上がった東京出張の、

夜を共に過ごす友がいなくても平気。

平気だもん。



というかなぜに、仕事でやって来た東京で己の人脈のなさを嘆かねばならんのか。

そうだ、アイツのせいだ。

古くからの戦友にして腐れ縁のあいつが、

当初約束していた飲みのアポイントを前日になってぶっちぎりやがったせいだ。

まったく、こんなことなら最初っからアイツじゃない例のあの子とか、

別のその子とか、最近知り合ったこの子とかに声をかけるべきだった。

前日にキャンセルされて、じゃあ明日の夜空いてる?なんて

問いかけてみたところで、帰ってくるのは「急すぎますよ」の大合唱。

うん、知ってる。

知ってるけど、声をかけずにはいられないじゃん。

だって急に予定がぽっかり空いちゃったんじゃん。

俺だってみんながそれぞれの道を歩み、

木曜の夜を親愛なる誰かと過ごしているんだろうなぁ

なんてことぐらい分かるじゃん。

でも、寂しいじゃん。

一人で大阪にとんぼ返りなんて、虚しいじゃん。

悲しいじゃん。

悔しいじゃん。



間違った東京言葉を連発しながら自分を慰めていると、

終電の新幹線がスルリとホームに滑りこんでくる。

闇夜を切り裂くヘッドライトは煌々と照らされ、

悲しみに沈む俺を一瞬明るい光に包んで、流れ去った。

徐々にスピードを殺した鋼鉄の斜体はホームドアの

開口部と寸分の狂いもなく止まり、次の刹那

ドアを固定していた圧縮空気の抜ける音がする。

プシュー。

今か今かと乗車の時を待つ乗客たちに聞こえないよう、

その音に合わせて俺はため息をつく。

そしてカバンの持ち手を握る手に力を込めた。

ほなな、東京。

また来るわ。

次はもっと笑ってさいなら、や。



のぞみは名残惜しそうに警笛をひとつ、長めに鳴らして滑り出す。

プシュッ。

気の早い乗客の一人がビールのプルタブを引く音がした。

言葉になりそうでならない、言いようのない、

たくさんの思いを胸の中に抱えて、俺は一人帰る。

時速数百キロで。

それじゃ。

はいどうも、

自転車ツーキニストをひっそりと引退していた、

使用上の注意です。

まぁ色々ありまして、ね。



そんなこんなで現在は立派に電車通勤をこなすイチ社会人として

日々懸命に汗を流す私こと使用上の注意。

となると必然的に、自転車ツーキニスト時代に購入したセミドロップハンドルの

シングルスピード(ギアがひとつしかないスポーツサイクル)

今ではほとんど乗られることもなく、マンションの自室前に

ひっそりとたたずむこととなる。

しかし、主がその手綱を取ること日が少なくなったとしても、

彼(自転車)は毎日黙って“その日”が来るのを待っている。

再び雄々しく駆け回る姿を主に見せる日がくることを、

彼(自転車)は待っている。

鉄のように冷たい彼(自転車)の体(クロモリフレーム)からは、

彼自身(自転車)のそんな切なくも熱い想いが伝わってくるようだ。



とはいえ。

さはさりながら。



これでもかと愛情を注いだ我が愛機(自転車)といえども、

乗りこなす機会が激減してもなお猛々しさを失わない立ち姿を誇れども、

何の色眼鏡もかけずにまっすぐと見つめればそれは自転車に過ぎず。

自分にとって特別なツールでさえ、他人にとっては単なる財貨。

いや、極論すれば購入して数年の時を重ねた自転車など

減価償却はとうの昔に終わってしまっているのであるからして、

帳簿上の価値はゼロ。

毎日通勤の足として我が街を駆け抜けたジョニー・ザ・ダッシュ(自転車)も、

主以外の人間からすればもはや物言わぬ鉄のオブジェ。



むぅ、それではあまりにもジョニーが不憫ではないか。

もっと彼(自転車)に思いを馳せてみても良いのではないか。

もっと彼(自転車)を愛でる機会を増やしても良いのではないか。

もっと彼(自転車)との思い出を心に刻んでも良いのではないか。

と、そう愚考しながら今日も、

電気で走る鉄の化け物に揺られている。

今度の休みはジョニーに跨って、久し振りに風を感じてみようか。

長い長い下り坂でブレーキを一杯握りしめながらゆっくりゆっくり

下ってみても
後ろに載せるキミは影も形もないけれど、

日の当たる坂道を駆け上ってみてもかつて約束を交わした

キミなんて人はどこにもいないけれど、

オレにはジョニーがいるじゃないか。



週末の昼下がり、

泣きながら自転車で車道を爆走する三十路男を見かけたら、

恐らくそれは私だ。

そっと見送って欲しい。

何も言わず、

何も思わず。

それじゃ。

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