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はいどうも、生温いブログ卒業宣言をしたものの、どうもすんなりとは生温いブログからの脱却が成功せず、まぁ時には口直し的なネタもありかと言い訳を自分に言い聞かせている、使用上の注意です。
と言う訳で、今日はちょいと硬派なネタを…。

死刑制度についてのブログを見て、元サッカー日本代表監督付き通訳、フローラン=ダバディさんの発言について私の思った事を…。

死刑問題を考える際には各国の文化・歴史は関係ない」、とダバディ氏は発言していらっしゃるみたいですが、刑罰制度こそ各国の文化・歴史、引いては国民性までをよく表している問題だと、私は思います。
支邦ではその昔竹で出来た切れ味の悪い鋸で手足を切断したり、四肢をそれぞれ馬に引かせて読んで字の如く「八つ裂き」にしたりしていたそうです(だから支邦人が特別に残虐だ、と言いたい訳ではないですよ?)。西洋でも魔女は火炙りにされたそうですし、宗教上の刑罰として十字架に磔された方がいらっしゃいました。

我が国でも武士の尊厳ある死として、切腹・介錯と言う死刑制度が整備されていましたし、そこには人間の誇り・尊厳を最大限尊重したい(武士階級に限った話ではありますが)、と言う我が国の国民性が制度化されていると言えるでしょう。支邦の刑罰には儒教的な精神が表れている様に見えますし、西洋の場合はキリスト教その他の宗教的影響が窺えます。

それらの歴史的事実・文化的側面を一切無視して、逆にそれらの「影響を死刑問題に絡ませる事は一種のナショナリズム」(ダバディ氏)だと断定するのは、歴史を知らない者の世迷言である、と言わざるを得ません。
其々の刑罰の歴史・変遷・制度を鑑みれば、刑罰制度は、各国の歴史・文化・国民性の積み重ねの上に、刑の様式・方法・哲学・理念が成り立っていると解し得ます。

重ねて、ダバディ氏は「現在国際社会で必要とされるのは、国籍・国家・国境を考えずに、人間として共通の生きるルールを考える事だ」、とおっしゃいますが、私に言わせてみればそんな事は理想論であり、実現不可能な机上の空論に過ぎません。人間が感情の生き物である限り、自己の所属するコミュニティ以外の人間に対して同族意識なり、共同体意識を持つ事は不可能でしょう。

何故なら人間の感情は、自己が関係する他者に対して形成されるものであり、その関係性が及ぶ範囲の人間に対してのみ、各種の感情を抱く事が出来ると言えるからです。全く無関係な他人に対して、自分が関係する人間に対して抱くのと同等の感情を抱けますか?逆に、高度に情報化され、人・物・情報が瞬時に行き交う現代社会では、己が依って立つべき共同体の存在が、生活する上でより大きな意味を持つ様になるのではないでしょうか?人間は動物であり、動物であるか為に、帰属意識を持つものであるからです。

そして人間の帰属意識は、依然として地球全体を共同体として意識出来る程、その射程を広げてはいませんし、また、そこまで広げる事は不可能でしょう。交通手段が発達し、これだけ国家・国境が曖昧になった現在でさえ、宗教・人種・思想・信条その他の相違点に起因する、戦争・紛争が多発している事が良い傍証です。

まぁだらだらと長く書いてしまいましたが、ダバディ氏の発言には全面的に不同意である事を言いたかっただけです(ヲイ…
そしてこんな時代だからこそ、自分の所属する社会・共同体・国家の意識を強く持って、己のアイデンティティを確立すべきなのではないか、と思う使用上の注意なのでした。

追伸:ネタを提供して頂いた「ダメなものはダメ」のだっしーさん、本当に有難う。