はいどうも、

課題の仮題は『過大な期待と蘭奢待』にしたったい、

使用上の注意です。

こういうロクでもない韻踏みが好きです、たまらなく。



ただ、そうやって大した意味も意義もない言葉の連なりを

意識的に紡ぎ続けるって、実は結構簡単なスキルでして。

世界で最も習得が困難だと言われている日本語で、

日常何の苦もなく意思疎通を図っておられる諸兄であれば

少しの意識と語彙と、あとは時間さえあればできる所業なワケデス。

なぜならこの文章には意味も意義も求められていないから。

言い換えればクオリティの良し悪しに責任がない、というコトでもある。

当然インターネッツというこれまでにない開放性を

持った公共の場での発言であるからして、何を言ってもいい、

という無責任な態度は許されないが、面白い面白くないは関係ない。

それが腹を抱えて笑い転げるほど高いクオリティを持った文章であろうと、

読むだけ時間の無駄だと憤るほどの駄文であろうと、書くのは自由。

限りなく無限に近い無責任と自由度が、

ライティングの難易度を極限まで下げてくれる。

だから、適当に知ってる単語を並び替えて繋ぎ合わせて

不可思議で懐疑的な態度を定義付けながら疑義を差し挟む文章を書き連ねれば、

”あっ”と言う間に形となる(但し意味はない。意義もない。オチもない)。



その意味で、まったくの個人がブログ上で吐き出す限りにおいてこの

ライティングという作業は、最もお手軽でお気軽で尻軽な

ストレス解消法として、相当のポテンシャルを秘めている。

だって好きなコトを好きなように思いつくままに書き連ねれば、

読者の有無に関係なく自身の思想なり哲学なり思考なりが具体的な

存在として具現化して残っていく(ような錯覚を得られる)のだから。

自分が生きた証とやらを求めがちなヒトにとって、これは楽しい作業だ。



ところが、だ。

このライティングという作業に”仕事”という

ファクターが加わったとき、その性質は180度変質する。

文字列の中に、意味と意義とオチとメッセージを込めなければならないからだ。

しかも、決まった文法とルールとマナーと温度感を絡めつつ、である。

さっきまでの無限の自由度はなりを潜め、代わりに我が物顔で

周囲を睥睨するのはクライアント、か。



「文章を書くのが好きだからライターになりたいんです」。

という人と知り合うときがある。

彼または彼女の”好き”というのが一体どのレイヤーで

語られているのか、いつも気になる。

キミは自分とは全く異なる口調とキャラクターと思想と哲学と

言葉遣いとテンポで、キミ自身が思ってもみない事実やときに

真実でさえない事実を声高に叫ぶ作業、つまり仕事としての

ライティングを好きだと本気で言えるのかね?と。



仕事は仕事である。

そしてプロフェッショナルは常に80点以上の

アウトプットを吐き出し、それを続けてナンボである。

「文章を書くのが好き」と言う理由でそれを生業にしようと

夢見ている青少年がもしいれば言いたい。

もう少し、考え給へ。

文章を書くのは手段であり、過程でしかない。

キミの目的と、望む結果は何だ?

文章を書くことか?

それとももっと別のことか?

その問いかけの先にある答えの方を、大切にし給へ。

それじゃ。