はいどうも、

自己評価と客観評価のギャップなら誰にも負けない、

使用上の注意です。

非常に甘い自己評価とそうではない客観評価の間に、

多分5人家族がゆうに暮らせるスペースがありそうだ。

いわく、ムダに広い。



それはそうと、

こうした自己評価と客観評価の溝は

世の古今・洋の東西を問わず古くから

人々を悩ませる大問題だ、多分。

特に、会社や学校、地域コミュニティなどのいわゆる

“社会”との関わりなくして生活が成り立たない現代人にとって、

その乖離は来るべき未来を左右しかねない。

なぜなら「オレって仕事バリバリこなして成果もバンバン」と

自分を評価していたとしても、『アイツの仕事はどこか

ピントがズレてて使えない』と客観的に評価されていたら、

「こんなに頑張ってるのにウエは評価してくれない」という思いと

『長い目で様子を見たけどやっぱり使えない』という評価が行き違い、

最終的には「辞めてやる!」『辞めてもらおう』というコトになって、

お互いにとって不幸な終幕を迎えてしまうからだ。

仕事に限らず、学校でもクラブでも塾でもご近所付き合いでもママ友でも、

“自己評価と客観評価の乖離”問題から逃げるコトはできないのである。



この厄介な“自己評価問題”について、

我々はどう振る舞うべきか?

高い自己評価と低い客観評価は、双方が不満を抱えてしまう。

であれば、極限まで自己評価を下げてしまえば良いのか?

少なくとも、(自分から見て)低い客観評価という概念が

なくなるのだから、一見問題なさそうだ。

が、それはそれで別種の問題を孕んでいるだろう。

何よりも達成感・やりがいを感じられず、自信が生まれない。

だって、どれほど成果を挙げたとしても自己評価が辛すぎると

「いやいや、私なんてもんは何をやってもダメな人間ですから」

なんていう結論に落ち着いてしまうから。

そんな人生はイヤだ。

それに、“評価する側”からしてもやっぱり、

『もっと手柄を誇ってくれないと評価しづらい』とか思われがち。

ちっ、めんどクセェ



まぁ理想を言えば、妥当な客観評価という前提があって、

その水準に限りなく近い(あるいはやや低い)自己評価が

実現できたとき、適度な飢餓感と達成感が両立できると思う。

ただ、そもそも“妥当な客観評価”とはなんぞやと考え始めると、

客観評価の妥当性を判断する客観評価が必要となり、

客観評価の妥当性を判断する客観評価の妥当性を判断する(以下ループ、

となって終わりがない。

一方の自己評価にしたって、客観評価の水準をどこに置くかで

結論は全く異なってくるのだから、結局答えなぞない。

つまるところ、自己評価にせよ客観評価にせよ

絶対的最適解がないのであるからして、

やはり我々は今後もこの問題に悩みながらもどうにか付き合っていく他ないだろう。

あとは野となれ山となれだコンチクショウ。



個人的な感想を以ってオチに代えるとするならば、

自己評価と客観評価の間に横たわる

5人家族向け相当のスペースを取り敢えず、

3人家族向けぐらいまで狭くしたいなぁ、と。

夫婦+赤ちゃん一人ぐらいのイメージ。

それじゃ。