はいどうも、

自転車ツーキニストをひっそりと引退していた、

使用上の注意です。

まぁ色々ありまして、ね。



そんなこんなで現在は立派に電車通勤をこなすイチ社会人として

日々懸命に汗を流す私こと使用上の注意。

となると必然的に、自転車ツーキニスト時代に購入したセミドロップハンドルの

シングルスピード(ギアがひとつしかないスポーツサイクル)

今ではほとんど乗られることもなく、マンションの自室前に

ひっそりとたたずむこととなる。

しかし、主がその手綱を取ること日が少なくなったとしても、

彼(自転車)は毎日黙って“その日”が来るのを待っている。

再び雄々しく駆け回る姿を主に見せる日がくることを、

彼(自転車)は待っている。

鉄のように冷たい彼(自転車)の体(クロモリフレーム)からは、

彼自身(自転車)のそんな切なくも熱い想いが伝わってくるようだ。



とはいえ。

さはさりながら。



これでもかと愛情を注いだ我が愛機(自転車)といえども、

乗りこなす機会が激減してもなお猛々しさを失わない立ち姿を誇れども、

何の色眼鏡もかけずにまっすぐと見つめればそれは自転車に過ぎず。

自分にとって特別なツールでさえ、他人にとっては単なる財貨。

いや、極論すれば購入して数年の時を重ねた自転車など

減価償却はとうの昔に終わってしまっているのであるからして、

帳簿上の価値はゼロ。

毎日通勤の足として我が街を駆け抜けたジョニー・ザ・ダッシュ(自転車)も、

主以外の人間からすればもはや物言わぬ鉄のオブジェ。



むぅ、それではあまりにもジョニーが不憫ではないか。

もっと彼(自転車)に思いを馳せてみても良いのではないか。

もっと彼(自転車)を愛でる機会を増やしても良いのではないか。

もっと彼(自転車)との思い出を心に刻んでも良いのではないか。

と、そう愚考しながら今日も、

電気で走る鉄の化け物に揺られている。

今度の休みはジョニーに跨って、久し振りに風を感じてみようか。

長い長い下り坂でブレーキを一杯握りしめながらゆっくりゆっくり

下ってみても
後ろに載せるキミは影も形もないけれど、

日の当たる坂道を駆け上ってみてもかつて約束を交わした

キミなんて人はどこにもいないけれど、

オレにはジョニーがいるじゃないか。



週末の昼下がり、

泣きながら自転車で車道を爆走する三十路男を見かけたら、

恐らくそれは私だ。

そっと見送って欲しい。

何も言わず、

何も思わず。

それじゃ。