はいどうも、

ニュースは突然降ってくる、

使用上の注意です。

情報洪水社会と呼ばれて久しい現代社会において、

全く意識しない角度から脳天直撃セガサターンと

降って湧いてくるのがニュースであって、

むしろあらかじめ詳しい内容が分かっていることが

手元に届いたところでそれはニュースではなく、

確認であるとか、報告であるとか、そういう類の情報なわけで。

これだけ情報が氾濫し、反乱している中であっても

古来からニュースはニュースとして数多の人類を直撃してきたわけですよ。



ニュースは突然降ってくる。

二度寝の至福を満喫していようが悦楽の波に溺れていようが

悲しみの縁にくれていようが怒髪天を衝いていようが、

ニュースは突然降ってくる。

その中身は、千差万別。

待ちに待った朗報もあろう。

泣きっ面に蜂のごとき悲報もあろう。

内容もよく分からない速報もあろう。

そして中には、不意の訃報もある。



この世に生を受けて30と数年。

人間50年と謳われた敦盛の時代はいざしらず、

男性の平均寿命が70を越えるこの時代に、

なぜ彼は逝ってしまったのか。

「早すぎる死を悼む」とか「悲運の死」とか「悲劇の逝去」とか、

言葉はどれも力不足を否めない。

何をもってしても、その死を言い表すことができない。

ような気がする。



とはいえ、さはさりなれど。

結局残されたヒトはしばらくの時間を置いたとしても、

これまでと同じ時間を過ごさざるをえない。

ある人は仕事に励み、ある人は子育てに追われ、

またある人は旅の続きを歩み出す。

そして残されたヒトもまた、逝く。

それで良い。

それで良いじゃないか。



彼が生き、彼が逝ったことを胸に刻み、

いつもと変わらぬ日常をつつがなく過ごす。

それが一番の供養になるんじゃないかね、多分、きっと。

それさえ自己満足に過ぎないんだろうけれど、生きねばならん。

生ききらねばならん。



そしてまた、ニュースは突然降ってくる。

冥福を祈りつつ、

精一杯の意を捧ぐ。