新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

カテゴリ: 日記系

はいどうも、

食事は栄養素の補給でしかなくてどっちかというと二谷派、

使用上の注意です。

何のことか分からないでしょう。

ええそうでしょうとも。

もちろん突然気が触れたわけではなく、先日職場の同僚に勧められて第167回芥川賞を

受賞した小説「おいしいごはんが食べられますように」を読了しましてね。

久し振りに読んだ本の感想でも記しておこうと考えたので更新した次第。

以下、筆者や支持者、あるいはアンチを攻撃する意図も批判する気持ちも

いわんや貶めるつもりもなど毛頭ないので、そのおつもりで。



・登場人物
二谷…アラサー男子、食事は栄養補給派、本音を押し殺して順応するも歪みが表出している
押尾…アラサー女子、最年少、仕事がデキる、同調圧力に過去屈したことを自覚していなかった
芦川…アラサー女子、最年長、か弱い女子で社会人としては失格だが、容貌と言動で支持者多数
その他…直属上司やパート社員、支店長など、芦川派で彼女のあれこれを許容してる風の人たち

・あらすじ

「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。
職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる
存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。



・おいしい素麺が食べらればそれで良い男の感想

シチュエーションにも人物像にも、同調圧力とか弱者の傲慢とか、

ローパフォーマーをバッサリ切り捨てない企業の論理とか逆に生贄が用意される不条理とか、

色んな意味で強く共感しながら次へ次へと読み進められた。

誰もが共通して感じる特定の誰かに対する違和感、不満、文句も、

それを言葉や行動として表に出した瞬間責められるのは表に出した方。

特定の誰かは社会的弱者として保護され、尊重され、許される。

しかもその結果生じる業務負担は普段人一倍仕事をこなす別の誰かに持っていかれて、

出世や社内の評価はさておき日々のストレスは一方的に蓄積される。

弱者が弱者でなくなり、強者が敗北する現実。

文中でも勝利や正義が言葉として表現されてはいるが、

行間にはその欺瞞が滲み出てる、ような気がする。

結局は誰もが自らの生存を優先して行動するわけで、一見他者を

思いやってる風の言動が実は自分の居場所を守るための戦略でしかなかったり。

コミュニティのアイドルとして、あるいは庇護者として、あるいは良き理解者として。

自らが生存戦略として選び取ったポジション・役割を演じ合うことで

成り立つ危うい平穏に、登場人物はそれぞれ壊れていく。

キモは、その破綻を他者に知られるか、知られざるか。

自分自身にも当てはまる葛藤があり、細かな心理描写とともに引き込まれる。



ちなみに二谷の食への忌避感は、母親との関係性が上手く昇華できていないが故の

遅過ぎる反抗期、として仄めかされてるけどどうなんやろ。

食べることは生きること、同時に、心理学的に食事は性交渉に擬されるわけで、

食をおろそかにするタイプは他者との交わりや愛情もおろそかにしている、ような。

その意味で二谷は食と距離を置き、性交渉や愛情とも距離をおいているように読めた。

で、彼は物語のラスト、その延長線上で生きるんやろか。

まぁ己の弱さと真正面から向き合う良い選択かも知らんけど。

根っこのところで矛盾する心情を抱えたまま、生き続けるのはしんどいと思わずにはいられない。

それに関しては後味の悪さを指摘する感想文も散見したけど、

現実なんてこんなもんよね、と思う自分もいたり。

理想と現実、本音と建前、仮面と素顔 etc…

思う通りにはならないことの多い人生だからこそ、飾らない本音の自分と

現実を上手く泳ぐ自分とでどう折り合いをつけるのか。

自分を壊さない範囲で社会における自分を壊さない、全ての人に課された

宿命と二谷はどう向き合っていくのか、ってのが気になる結末でした。



最後に、次から職場の同僚たちの言動に、もっと注意を払おうと決意させられた、

という意味ではサラリーマン向け啓発書、という側面もあり、心が重い。

はいどうも、

メタバース?

セカンドライフとどうちゃうの?

使用上の注意です。

というかセカンドライフってまだ運営されてたんや…。



そんなこんなで俄に脚光を浴びるメタバース。

現実を離れた仮想空間でもう一つの人生を送ることが可能な夢のプラットフォーム。

嫌なことしかないこの世を離れ、理想のEl Dorado。

口を開けば愚痴ばかり、オスとしての賞味期限もとうの昔に切れ果てて、

ただただ同じような毎日を繰り返しては糞尿を効率的に量産するマシーンと化した、

人生オワコン野郎(≒オレ)の最後の成れの果て。

それがメタバース(かなり違うし、一方的な誤解

結局どうあがいてもやっぱり人間は、ここではないどこかへの

憧れと願望を捨てきれぬ生き物であろうか。

と同時に、どうあがいてもやっぱり人間は、この言いたいことも言えない

こんな世の中で生きるしかない生き物であるのもまた事実。



仮にタイムマシーンで好きな時代に戻れるとしていつからやり直すか、

っていうまだ馴れ初め浅い男女がキャッキャウフフするときの定番トークテーマも、

裏返してみれば単なる現実逃避・やり直し志向の現れでしかなく、

そう考えると戻れもしない過去をテーマに、非代償性の極めつけでもある「今」

というこの時間を無駄に費消する愚かな行為であると断じざるを得ない。

そんな、何の生産性もない後ろ向きで刹那的なメタバースに

限られた資本と労力と資本を投下する行為の愚かさよ。

そこに何の現世利益があると言うのか。



考えてご覧よ。

メタバース内で買い物をして、我が身を写したアバターに限定品ファッションを

施したとて、デコードすればそれは無味乾燥な文字列に過ぎん。

他の人が持っていない、というだけでなぜ単なる文字の塊に

現実世界の金銭的価値が生じるというのか。

仮想世界で利害関係なく何でも話せる友人を作ったとて、

現実世界で次々と襲いくる人生の諸問題には無力でしかなく。

そこに注ぎ込まれる時間と手間と思いやりの交換は、

非現実世界でのみそなたを支え、鼓舞する麻薬のようなもの。

仮想世界で勇気づけられて現実世界に臨んでみても、いざ戻ってみれば我々を

追い込む世のよしなしごとは寸毫も変わらぬ顔で恬として居座っておる。

0と1とで再表現されたメタバース内のソウルフレンドたちは

厳然たる現実の前に何ら実効的な援軍とはたり得ず、

ただただ“心の支え”とかいうあやふやで曖昧模糊とした

助太刀なのか気休めなのかなんなのか表現し辛い存在でしかないわけで。



それでも時は移ろい、世は流れる。

仮想の仲間、イマジナリーフレンド、バーチャルパートナーに心癒され、

己を0と1とで飾り立てることで現実世界を生き抜く力が得られる人たちが増えれば、

逆に使用上の注意ことオレの方が異端・少数派・弾かれ者になるのであるからして、

無力な一個人が時の流れに抗おうとしてもアリの一撃。

今風に言えば、慎重に注視して対応を熟慮する、といったところか。

是か非かいずれの結論にも至らないオレの、至らなさだけが際立った、という結論。

はいどうも、

Tumblrには気をつけろ、

使用上の注意です。

いわく、時間が無限に溶ける。

いや、マジで。



賢明なる読者諸兄は夢々安易な気持ちでTumblrにアクセス召されるな。

おのが人生の他の何にも代えがたき数刻を、むせ返るニオイを発して止まない

ドブへ放擲する覚悟のなき者は、Tumblrを訪れてはならぬ。

Tumblrは魔境、魔窟、伏魔殿であり、

そこに巣食うおもしろネコ画像、市井の名もなき詩人によるポエム、

ビジネスマン必読の格言、過去の偉人の名言、かわいい概念の相変化の

一種ともいえるネコ画像、いんたあねっとの大海に漂うネタ画像、

そしてうら若き乙女のぐらゔぃあ写真。

それらが渾然一体となって次々と止むことなく襲来するWebメディア。

これこそがTumblrなのである。



もう一度言う。

うら若き乙女のぐらゔぃあ写真が無限スクロールとともに、

文字通り無限のパターンで出現する桃源郷地獄を想像するが良い。

念のため明記しておくが、Tumblrに18歳未満の健全な青少年の性欲を

徒に興奮せしめる火の玉ストレート素材は流れてこない。

運用方針が大きく変更されたがゆえ、Tumblrにエロはない。

ごくまれにフィルタリングの網をかいくぐったど真ん中ストレート

画像が流れてくることもあるが、それもまた一興。


しかしそこに確かに、微エロがある。

それがTumblr



重ねて言う。

Tumblrとはうら若き乙女のぐらゔぃあ画像が、時折これでもかと言わんばかりに

連投されるそれはそれは恐ろしいトラップの集合体であり、ともすると

年齢=彼女いない歴の猛者どもの無意識的集合体がWebマスターなのかと

ゲスな勘ぐりを働かせてしまうほどの闇深き空間であり、

その実態を光の世界に堂々開陳しても良いものかと

紳士な私を躊躇わせる危険な香りを漂わせた、蠱惑的な求心力を

妖しく放つWebメディアなのだ。

エロくはない。

微かにエロい。

それがTumblrの魅力なのかも知れない。



おかしい。

何かがおかしい。

Tumblrが内に孕む危険性=時間を無限に溶かす副作用を広く世に知らしめんと

ほぼ4年ぶりにブログの記事を書き始めた私が、むしろ逆にTumblr

微エロ路線を称揚し、称賛し、むしろ広く世間に知らしめてしまっている、

かのように読み取れてしまうではないか。

恐るべしTumblr

忌むべしTumblr

避けるべしTumblr



いやぁ、Tumblrって、ほんとにいいもんですね(水野晴郎風

さよなら、さよなら、さよなら(淀川長治風

はいどうも、

生きてるって素晴らしい、

使用上の注意です。

やぁ皆さん久し振り。

お元気に日々のよしなしごとをアレヤコレヤとこなしておいでであろうか。

いろいろありますが、私は元気です。

とはいえ、今までの自分とは一味違う、

ちょっと大人風味でビターな毎日を送っているのであるからして、

結構満身創痍という言葉がふさわしい今日このごろ。

とかくこの世は生きにくい。

さりとて他の誰のせいでもなく、

全ては己の、一瞬一瞬の選択の積み重ねが今なのであるからして、

結局青息吐息を吐きながらも新たな選択を重ねるしかない今日このごろ。

関係各位におかれましては、賢明なる選択を重ねられんことを

心の底から願い捧げ奉る。



まぁアレよ、がむしゃらに疾走していればそれでステージクリアとなったかつての、

あの無邪気で、ある種浅薄な、それだけに明快な日々は終わりを告げ、

社会という大海原はその表情を変えた。

そこは策動と権謀と術数が飛び交う大魔境。

ことここに至っては、凪の海を前にして途方に暮れる時間さえ

次なる一歩を踏み出すための思索の時間なのであるからして、

決して無為なる停止ではないと自分に言い聞かせることも必要だ。



さて、今までの自分では見つけられなかった道、

今まで考えもしなかった道が、今目の前に開けている。

そこに気づいてしまったが、今までを変えようとする自分に怯える自分がいるのもまた事実。

さりとて、さはさりながら、人生は不可逆的一方通行であるからして、

道を戻るということはできず、選択の積み重ねしか選択肢がないのが人生であり、

今までも、そしてこれからも、選択し続けるしかない。

どうするか、オレ。



この道を行けば、どうなるものか。

危ぶむなかれ。

危ぶめば道はなし。

踏み出せばその一足が道となり、

その一足が道となる。

迷わず行けよ。

行けばわかるさ。



今なら、良寛の言葉が身にしみる。

決してアン○ニオ猪○ではない。

今、オレに必要なもの。

立ち止まる勇気。

捨て去る胆力。

選択しないという選択。

それじゃ。

はいどうも、

実は医師と仕事をする機会が激増している、

使用上の注意です。

ただまぁそれは転職の結果なので、詳細については黙秘する。



で、現代日本において弁護士と並ぶ高給&高社会的地位に

君臨あそばれている医師という生き物は、当然に頭が良い。

偏差値とか暗記とかのいわゆるお勉強系頭脳は当然さることながら、

頭の回転とか概念と概念をつなげる発想とか、そういう

地頭系スキルも強い人が多い、ように思う。

とするとなんの取り柄もない、強いて言えば意味のない文章なら

延々と書き続けることができるぐらいしか胸を張って他者より秀でていると

いえるスキルを持ち合わせていないイチ小市民たるオレとしては、

やはりそこにいくばくかのコンプレックスを感じてしまうですよ。



しかも、彼らの多くはハードワークを全く厭わないし、

それを軽々と乗り越える肉体的な頑健さも持ち合わせている。

それが本音かどうかはまぁさておき、患者さんのためという理念に身を捧げ、

土日だろうが深夜だろうが早朝だろうが、必要であればいくらでも働く、人が多い。

一人不夜城、一人コンビニと謳われた前職時代のオレも裸足で国道2号線を

逃げ出すような勤務体系を楽々とやりきり、あまつさえそこから

飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを繰り広げる始末。

中堅といっても全く不自然でない年齢の、壮年医師が当直勤務明け朝一番の

会議で切れ味鋭い解釈と洞察と直感でバシバシ快刀乱麻していくもんだから、

前夜に熟睡して頭シャッキリお目めバッチリで参加しているはずなのに

灰色のアイディアしか浮かんでこないオレ、顔面ブルーレイ。

何だこれ、っていう、劣等感。



もっと言えば医師という仕事は、本質的に苦労が多い。

医療技術は日進月歩の勢いで進化しているがゆえ、勉強は怠れない。

医師になるというのは決してゴールではなく、

むしろ終わりなき修行の旅の始まりに過ぎないわけで。

もちろん勉強していればそれで良いわけでなく、

人の命を守り、救い、慈しむタスクが連日押し寄せる。

中には理不尽なクレームをつけてくる患者さんもいて、

精神的なストレスも並大抵ではない。

だってちょっと聞いてくださいよ、旦那。

医師が診察の合間にペットボトルのお茶を飲んだとして、

それを見た患者さんが「仕事中にお茶を飲むとは何事か」

なんて言ってくるわけですぜ?

いくら何でもそれはひどいでしょ?

でも、実話なんですよ、奥さん。



そりゃね、高給もらって当たり前でっせ。

多少の役得があっても良いじゃありやせんか。

医師は辛いよ。

横で見ていてそう思う。

ただ、だからこそ、それがゆえに、

自分のショボさが強調されて凹むわけでもある。

オレも、先生方に張り合って頑張ろうっと。

対等のパートナーとして二人三脚、車の両輪になれるよう

やれるだけ頑張ってみてーよ(山崎まさよし

よし。



それじゃ。

はいどうも、

気を緩めた瞬間に1年が経過していた、

使用上の注意です。

前回の更新からまるまる1年。

お元気ですか? by 井上陽水

まぁこちらはあれから色々とありまして、

どこへ行っても置かれた場所で咲き誇るべく懸命にトライ&エラーを繰り返しつつ、

賢明な読者諸兄はもうお分かりのように結局馬車馬人生からは逃れられず。

今日も明日も明後日も、この命尽きるまでガシガシ働き続ける毎日です。

件名に「【悲報】残業規制の影響ど真ん中」とか付けかねない勢い。



それはさておき、結局のところ今を遡ることウン年。

月間残業時間が三桁オーバーも何のその。

厚労省から公的に心配してもらえる生活を送っていたあの頃と比較して、

業務として拘束される時間は確かに減ったのだ、けれども。

その内容というか内実というか実質の部分では今も結局

現場作業員のレベルを超えることができず。

若さという有限の価値をすり減らしてしまったために無理も効かず。

豪速球で鳴らした本格派のエースピッチャーが、

運動能力の衰えとともに変化球と投球術で打たせて取る技巧派へ

モデルチェンジするがごとく、社会人もレベルアップなり

場面転換なり進化なりを遂げねばならんわけで。



抜群の反射神経でことごとくエースストライカーを止めてきた

カテナチオディフェンダーだって、動体視力やら筋力やらの低下に

あわせて身体能力任せのディフェンスから洞察と読みと経験とに

裏打ちされた先読み型マジシャンディフェンダーに生まれ変わるように。

片付けても片付けても止むことのない雪のように降り積もる案件を、

またとにかく脇目も振らず片付ける毎日を卒業すべきなのですよ、オレも。

一人の大エース、絶対的守護神に頼るチームづくりは、

その大黒柱の衰えとともにやがて衰退する。

創業者というカリスマ亡き後、どれほどのベンチャー企業が生き残るのか。

いつだって誰だってどんなときだって、やっぱり人は昨日の自分より明日の自分が

賢くなったり知恵が付いたりスキルを学んだりしないといけないんです。



いつまでも、あると思うな、溢れるエナジー(字余り



手数で勝負する時代は過ぎた。

パワープレイで難局を乗り切るトレンドは終わった。

これからはNEW・オレ。

ニューオレ。

ニュレ。

一つ一つの案件のディレクションではなく、組織のディレクションを。

現場現場で辣腕を振るうプレイヤーではなく、

大所高所からパズルを組み立てるプロデューサーに。

全力疾走で駆け抜けるスプリンターから、

局面ごとのペースを変幻自在に操るマラソンランナーに。

人の成長に終わりなし。

人の進化に終わりなし。

人の革新に終わりなし。

終わりなき、ニュレ。

ニュレ。

はいどうも、

久し振りに夜更かしをしてみたら

やっぱり夜はろくな考えが浮かばない、

使用上の注意です。



この数年、色々と人生の舞台が転回したこともあって、

周辺環境がまさに激変したなぁ、とか思ってみたり。

大きかったのは、転職。

人生の中で20代から60代までの40年以上を費やす仕事は、

つまり人生の半分を使って取り組む一大事業なのであるのは間違いない。

ただ、その事業が終始一貫同じ舞台で踊り続けなければならないものでもなく、

海外の労働者は気に入らない舞台をさっさと自ら降板してまた新しい、

自分に相応しいであろうと思われる舞台へ移ってしまう、らしい。

翻って日本では、感覚的にはつい十年ほど前まで、

一度踏んだ舞台を降りることは許されず、

降板者はさながら人生の落伍者かのように扱われ、

「お前なんてどこの会社に行っても通用しない」なんて、

一度も舞台を変えたことのない先輩役者に根拠のない憶測でしかない

謂れのない非難を浴びるしかないという悲惨としか言えない状況が続いたわけで。



それを思えば彼らの言に言う“落伍者”の仲間入りをしたオレなんて人間は、

結局逃げ出した負け犬だの根気のない今時の若者だの

拾ってやった恩を仇で返す不忠義者だの言われても、

負け犬らしく尻尾を丸めてくーんくーん鳴いてることしか

できない社会的弱者であった、だろう。

感覚的に、十年ほど前ならば。

それでもまぁ今もなお、極々一部の極めて保守的で日本的労働慣行の宿痾とも

いえるような方々は、やっぱりオレを貶して貶めて憎んで恨んで

遠慮会釈も容赦も情けもない言葉という名の刃で切り刻もうとする。

オレは大根でも玉ねぎでもねぇっつーの。



結局何が言いたいのかというとオレは、前の舞台に関わっていた

幾多の人間に対して、オレという人間を別の舞台に立っても通用する

役者に育ててくれた恩義を忘れたことはないし、

これからも忘れることはない、と誓いたいところだが、

その恩義に縛られてあのままあの時の舞台に立ち続けていたらオレは多分、

とても大切で二度と手に入らない何かを失っていたと思うし、

舞台を変えるという一大決心をしたお陰でオレは、

その何かを今手に入れつつあると実感している、ということ。

だからもし、今自分が立っている舞台に疑問やら不安やら不信やら不満を

持っている若い人がいたならば、まずは外の世界を覗いてみると良いよ、と。

そしてぶーぶー言いながらでも良いから今の舞台で一生懸命汗をかいておけば、

別の舞台なのか今の舞台なのかは分からないけれども

いつか必ず役に立つ日が来ると思うよ、と。

縛られず、後ろを向かず。



年を取ると説教臭くなる、というのはホントなんだな。

それじゃ。

はいどうも、

驚くことに早くも2015年が終わろうとしていて

自分の加齢と老化と記憶力の減衰に驚き呆れる、

使用上の注意です。

ついこの前、始まったばかりじゃないか。

それがどうしてこんなにも押し詰まっているのか。

おかしい。

どう考えてもおかしい。

これはもしや、オレの記憶が途中で削除されている?

( ゚д゚)ハッ!

まさか、米軍の陰謀?



というわけでこの1年を振り返って、

反省と内省と自省と猛省に勤しんでみたい。

いやぁ、まぁ、今年も色々とありました。

ただ、色々とあったはず、なのではあるが、

最近本気で記憶力が衰えてしまってしかたがない。

本気と書いてマジと読ませるかどうかはまぁ良いとして、

臍で茶が沸くレベルに覚えられない覚えていられない。

何となーく薄らぼんやりとした記憶のような何かが

灰色の脳みその奥底の内部の深奥に、薄っすらと積もっている感覚。

全ては曖昧な感じで「そんなこともありました、っけ?」ぐらいの記憶力。

だから1年の振り返りといっても具体的などうだとか

現実的なこうだとかは一切ないのでそのつもりで。



と、ここまで書いたのが2015年12月29日。

で、現在は2016年1月10日。

これはまさか、DIOのスタンドっ?

The Worldが発動していたのか?

ってぐらいに消し飛んでいる。

記憶も。

時間も。

そしてなぜかお金も。



一年の計は元旦にあり。

と言われても、元旦ははや昔の話になりにけり。

去年(2015年)も一年色々ありました。

楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、悔しいこと。

それでも結局人は与えられた限りある寿命を全うすべく、

ただ行く川の流れのごとき留まることを知らない時間の流れに身を任せ、

根無し草のようにあっちへプカプカこっちへプカプカ、

今日も明日も明後日も、生きていく。

今年(2016年)はもっと楽しくもっと嬉しく、

もっと笑えてもっと弾けて、

“もっともっと”な一年にしたいなぁ。

間違っても「ほっともっと」ではないし、いわんや「ホモ」でもない。

「ほっともっとフィールド」略して「ホモフィー」でもないので、

あしからず。



そんな一年、できるかな?

いややるんだよ。

それじゃ。

はいどうも、

2015年もいよいよ押し詰まってきたので

なんだかんだで多角的な視点が大切なんだ、

とかそういうことを言ってみたい、

使用上の注意です。

“社会”という大波と暴風が逆巻く嵐の海に漕ぎいでて早10年。

酸いも甘いも辛いも苦いもよく分からない不思議な味も、

それなりに味わってきた、と思わなくもない。

悶絶するほど酸っぱい出来事や気絶するほど苦い体験や、

変な汗が滝のように流れる辛いイベントを通り抜けてきたわけで、自分なりに。

つーか改めて振り返ってみて、文字化してみるとなんだか

マイナスな体験しかしていないような、

気もしないでもないが気にしない。

とにかく、10年間の有難うを込めて

まだ将来に光り輝く無限の可能性を秘めた後進に贈りたい。

『何事も裏表よね』

という哲学を。



例えば法の抜け穴をかいくぐって

グレーゾーンを脇目もふらずひた走る企業なり組織があったとして。

そこで働く人たちはやっぱりサービス残業とかサービス休日出勤とか

サービス有給放棄とかしてるわけで。

従業員としては青息吐息で全力前進するしかなく、

というかそうしないと仕事が回らない。

仕事が回らなければ業績が上がらないのであって、

業績が上がらなければ、多いとか少ないとかは別にしても

サラリーが手に入らない。

だからサービス業的勤労生活を送ることに対する

不平とか愚痴とか不満とかボヤキとか不信とかはとにかくまぁ一回

ぐっと胸の奥にしまいこんで、

グレーゾーン全力疾走型企業に青春を捧げるしかないわけです、ええ。



と、こうやって描写すると数年前から突然流行りだした

ブラック企業のレッテルが想起されるわけであるのだが、

この裏面を探ってみる。

つまり、物事を多面的に捉えてみようという試みだよ、ワトソン君。



当然ながら従業員個人にとって無理な勤務は、心身の疲労を拡大再生産する。

そしてそういうグレーゾーン全力疾走型企業ってのは得てして

サラリーも大変お買い求めやすい価格に仕上がっているのであるからして、

物質的な充足もあまり期待できない。

何が社会のためだ、何がお客様のためだ、何が幸福な人生だ。

ここまでが表面。

だが、まぁちょっと待て。

全くの逆方向から上記の現象を観察してみるに、

彼は疲労と困憊とストレスと何種かの基礎疾患と引き換えに、

常人でない仕事量という経験値を得ている、ことは間違いない。

余人を持ってして代えがたい仕事、というのはなかなかあるものではないが、

だからといって人一倍仕事ができる凡人というのはどれほどいるのだろうか。

その意味で(ある意味無理やりというか自由意志とは関係なくではあるが)

凡人が凡人たる仕事量の数倍にものぼる仕事をこなした彼または彼女は、

もはや凡人ではなく超凡人とでも言うべき存在にレベルアップしたのであって。

テレレレッテッテッテー(ドラクエ風

だ。



別にブラック企業を肯定するつもりはない。

かといって全否定する必要もないような。

問題は自ら火中の栗を拾う覚悟を決めた、

自由意志に基づく就労・勤労であるか否か、ではなかろうかと。

結局、いかにして良い面に目を向けるか。

いかにして前向きに行動できるかが、その後の人生を変えるのではないかと。

物事の裏表を見つめてみるに、そう考えた次第。

依って件の如し。

それじゃ。

はいどうも、

何となくTumblrをのんびり眺めていたら

無性に文章が書きたくなった、

使用上の注意です。

普段オレ達が何気な〜く生きているこの社会は、

実は様々な才能で溢れていて、それが惜しげもなく披露され続けている。

それが現実なのではなかろうかと。

それが証拠にTumblrには、クスリと笑えたりニヤリと笑えたり

う〜むと考えさせられたりマジか…と驚愕させられたり、

体の一部がHot!Hot!になったりやべぇ早く寝なきゃと焦らされたり、

そんな引用や転載や独自創作やニュースや画像が次から次へと流れていて、

もはやそれを全部消費することなんて不可能であって

群がる情報をちぎっては投げちぎっては投げしているうちに

“あっ”という間に深夜2時。

まさにスタンド。

まさにThe World。

jojo14




ただ、そうやって世界の片隅でひっそりと生きるこのオレの、

ざわつく心をさらにざわざわさせてくる名も無きタレントフルな一般ピーポーは、

よくよく考えると情報発信手段と類まれな才能を併せ持った人間なわけで。

条件的にはかなり目の細かいフィルターを通過した人たちであり。

世界中の人口から考えると本当にごくごく僅かな割合でしかないし、

今この瞬間飢えと病気で死の淵に直面しているどこかの国のある人は、

実は手段さえあれば世界を変えうる才能を発揮していたかも知れず。

言い換えれば、情報発信の手段を持っている世界中の限られた人たちの中でも、

さらに“他にはない才能”を持った人たちが繰り出す情報だけでさえ

こんなにも時間を忘れさせて没頭させる魔力を持っているのであるからして、

それ以外の“その他大勢”に便宜上分類されてしまっている

埋もれたタレントが真の実力を発揮してしまったら…。

オレの一日は24時間で全く足りなくなるに違いない。



とはいえ、どれほどに珠玉の情報であったとしても

それが数えきれないほど集まってしまった時、

一瞬にして全てが等しく砂のひと粒に成り果てる。

九十九里浜の真砂の中からたったひと粒を見つけ出せ。

と言われてもできるわけがないし、それが世界規模で行われてしまえば

早々に白旗を掲げてふて寝を決め込むしかないのは自明の理。

今夜オレがその情報に出会えたのは、安っぽい言葉のチョイスではあるが、

奇跡としか言いようがない。



奇跡だ。

おぉ、奇跡だ。

どれほど言葉を費やしても全くもって山場と落ちと意味を含まない

このブログを、ここまで読んだあなたは奇跡の人だ。

奇跡の人に、幸多からんことを。

大変申し訳ございませんでした。

それじゃ。

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