はいどうも、
食事は栄養素の補給でしかなくてどっちかというと二谷派、
使用上の注意です。
何のことか分からないでしょう。
ええそうでしょうとも。
もちろん突然気が触れたわけではなく、先日職場の同僚に勧められて第167回芥川賞を
受賞した小説「おいしいごはんが食べられますように」を読了しましてね。
久し振りに読んだ本の感想でも記しておこうと考えたので更新した次第。
以下、筆者や支持者、あるいはアンチを攻撃する意図も批判する気持ちも
いわんや貶めるつもりもなど毛頭ないので、そのおつもりで。
・登場人物
二谷…アラサー男子、食事は栄養補給派、本音を押し殺して順応するも歪みが表出している
押尾…アラサー女子、最年少、仕事がデキる、同調圧力に過去屈したことを自覚していなかった
芦川…アラサー女子、最年長、か弱い女子で社会人としては失格だが、容貌と言動で支持者多数
その他…直属上司やパート社員、支店長など、芦川派で彼女のあれこれを許容してる風の人たち
・あらすじ
・おいしい素麺が食べらればそれで良い男の感想
シチュエーションにも人物像にも、同調圧力とか弱者の傲慢とか、
ローパフォーマーをバッサリ切り捨てない企業の論理とか逆に生贄が用意される不条理とか、
色んな意味で強く共感しながら次へ次へと読み進められた。
誰もが共通して感じる特定の誰かに対する違和感、不満、文句も、
それを言葉や行動として表に出した瞬間責められるのは表に出した方。
特定の誰かは社会的弱者として保護され、尊重され、許される。
しかもその結果生じる業務負担は普段人一倍仕事をこなす別の誰かに持っていかれて、
出世や社内の評価はさておき日々のストレスは一方的に蓄積される。
弱者が弱者でなくなり、強者が敗北する現実。
文中でも勝利や正義が言葉として表現されてはいるが、
行間にはその欺瞞が滲み出てる、ような気がする。
結局は誰もが自らの生存を優先して行動するわけで、一見他者を
思いやってる風の言動が実は自分の居場所を守るための戦略でしかなかったり。
コミュニティのアイドルとして、あるいは庇護者として、あるいは良き理解者として。
自らが生存戦略として選び取ったポジション・役割を演じ合うことで
成り立つ危うい平穏に、登場人物はそれぞれ壊れていく。
キモは、その破綻を他者に知られるか、知られざるか。
自分自身にも当てはまる葛藤があり、細かな心理描写とともに引き込まれる。
ちなみに二谷の食への忌避感は、母親との関係性が上手く昇華できていないが故の
遅過ぎる反抗期、として仄めかされてるけどどうなんやろ。
食べることは生きること、同時に、心理学的に食事は性交渉に擬されるわけで、
食をおろそかにするタイプは他者との交わりや愛情もおろそかにしている、ような。
その意味で二谷は食と距離を置き、性交渉や愛情とも距離をおいているように読めた。
で、彼は物語のラスト、その延長線上で生きるんやろか。
まぁ己の弱さと真正面から向き合う良い選択かも知らんけど。
根っこのところで矛盾する心情を抱えたまま、生き続けるのはしんどいと思わずにはいられない。
それに関しては後味の悪さを指摘する感想文も散見したけど、
現実なんてこんなもんよね、と思う自分もいたり。
理想と現実、本音と建前、仮面と素顔 etc…
思う通りにはならないことの多い人生だからこそ、飾らない本音の自分と
現実を上手く泳ぐ自分とでどう折り合いをつけるのか。
自分を壊さない範囲で社会における自分を壊さない、全ての人に課された
宿命と二谷はどう向き合っていくのか、ってのが気になる結末でした。
最後に、次から職場の同僚たちの言動に、もっと注意を払おうと決意させられた、
という意味ではサラリーマン向け啓発書、という側面もあり、心が重い。
食事は栄養素の補給でしかなくてどっちかというと二谷派、
使用上の注意です。
何のことか分からないでしょう。
ええそうでしょうとも。
もちろん突然気が触れたわけではなく、先日職場の同僚に勧められて第167回芥川賞を
受賞した小説「おいしいごはんが食べられますように」を読了しましてね。
久し振りに読んだ本の感想でも記しておこうと考えたので更新した次第。
以下、筆者や支持者、あるいはアンチを攻撃する意図も批判する気持ちも
いわんや貶めるつもりもなど毛頭ないので、そのおつもりで。
・登場人物
二谷…アラサー男子、食事は栄養補給派、本音を押し殺して順応するも歪みが表出している
押尾…アラサー女子、最年少、仕事がデキる、同調圧力に過去屈したことを自覚していなかった
芦川…アラサー女子、最年長、か弱い女子で社会人としては失格だが、容貌と言動で支持者多数
その他…直属上司やパート社員、支店長など、芦川派で彼女のあれこれを許容してる風の人たち
・あらすじ
「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。
・おいしい素麺が食べらればそれで良い男の感想
シチュエーションにも人物像にも、同調圧力とか弱者の傲慢とか、
ローパフォーマーをバッサリ切り捨てない企業の論理とか逆に生贄が用意される不条理とか、
色んな意味で強く共感しながら次へ次へと読み進められた。
誰もが共通して感じる特定の誰かに対する違和感、不満、文句も、
それを言葉や行動として表に出した瞬間責められるのは表に出した方。
特定の誰かは社会的弱者として保護され、尊重され、許される。
しかもその結果生じる業務負担は普段人一倍仕事をこなす別の誰かに持っていかれて、
出世や社内の評価はさておき日々のストレスは一方的に蓄積される。
弱者が弱者でなくなり、強者が敗北する現実。
文中でも勝利や正義が言葉として表現されてはいるが、
行間にはその欺瞞が滲み出てる、ような気がする。
結局は誰もが自らの生存を優先して行動するわけで、一見他者を
思いやってる風の言動が実は自分の居場所を守るための戦略でしかなかったり。
コミュニティのアイドルとして、あるいは庇護者として、あるいは良き理解者として。
自らが生存戦略として選び取ったポジション・役割を演じ合うことで
成り立つ危うい平穏に、登場人物はそれぞれ壊れていく。
キモは、その破綻を他者に知られるか、知られざるか。
自分自身にも当てはまる葛藤があり、細かな心理描写とともに引き込まれる。
ちなみに二谷の食への忌避感は、母親との関係性が上手く昇華できていないが故の
遅過ぎる反抗期、として仄めかされてるけどどうなんやろ。
食べることは生きること、同時に、心理学的に食事は性交渉に擬されるわけで、
食をおろそかにするタイプは他者との交わりや愛情もおろそかにしている、ような。
その意味で二谷は食と距離を置き、性交渉や愛情とも距離をおいているように読めた。
で、彼は物語のラスト、その延長線上で生きるんやろか。
まぁ己の弱さと真正面から向き合う良い選択かも知らんけど。
根っこのところで矛盾する心情を抱えたまま、生き続けるのはしんどいと思わずにはいられない。
それに関しては後味の悪さを指摘する感想文も散見したけど、
現実なんてこんなもんよね、と思う自分もいたり。
理想と現実、本音と建前、仮面と素顔 etc…
思う通りにはならないことの多い人生だからこそ、飾らない本音の自分と
現実を上手く泳ぐ自分とでどう折り合いをつけるのか。
自分を壊さない範囲で社会における自分を壊さない、全ての人に課された
宿命と二谷はどう向き合っていくのか、ってのが気になる結末でした。
最後に、次から職場の同僚たちの言動に、もっと注意を払おうと決意させられた、
という意味ではサラリーマン向け啓発書、という側面もあり、心が重い。