新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

カテゴリ: お仕事系

はいどうも、

生きてるって素晴らしい、

使用上の注意です。

やぁ皆さん久し振り。

お元気に日々のよしなしごとをアレヤコレヤとこなしておいでであろうか。

いろいろありますが、私は元気です。

とはいえ、今までの自分とは一味違う、

ちょっと大人風味でビターな毎日を送っているのであるからして、

結構満身創痍という言葉がふさわしい今日このごろ。

とかくこの世は生きにくい。

さりとて他の誰のせいでもなく、

全ては己の、一瞬一瞬の選択の積み重ねが今なのであるからして、

結局青息吐息を吐きながらも新たな選択を重ねるしかない今日このごろ。

関係各位におかれましては、賢明なる選択を重ねられんことを

心の底から願い捧げ奉る。



まぁアレよ、がむしゃらに疾走していればそれでステージクリアとなったかつての、

あの無邪気で、ある種浅薄な、それだけに明快な日々は終わりを告げ、

社会という大海原はその表情を変えた。

そこは策動と権謀と術数が飛び交う大魔境。

ことここに至っては、凪の海を前にして途方に暮れる時間さえ

次なる一歩を踏み出すための思索の時間なのであるからして、

決して無為なる停止ではないと自分に言い聞かせることも必要だ。



さて、今までの自分では見つけられなかった道、

今まで考えもしなかった道が、今目の前に開けている。

そこに気づいてしまったが、今までを変えようとする自分に怯える自分がいるのもまた事実。

さりとて、さはさりながら、人生は不可逆的一方通行であるからして、

道を戻るということはできず、選択の積み重ねしか選択肢がないのが人生であり、

今までも、そしてこれからも、選択し続けるしかない。

どうするか、オレ。



この道を行けば、どうなるものか。

危ぶむなかれ。

危ぶめば道はなし。

踏み出せばその一足が道となり、

その一足が道となる。

迷わず行けよ。

行けばわかるさ。



今なら、良寛の言葉が身にしみる。

決してアン○ニオ猪○ではない。

今、オレに必要なもの。

立ち止まる勇気。

捨て去る胆力。

選択しないという選択。

それじゃ。

はいどうも、

実は医師と仕事をする機会が激増している、

使用上の注意です。

ただまぁそれは転職の結果なので、詳細については黙秘する。



で、現代日本において弁護士と並ぶ高給&高社会的地位に

君臨あそばれている医師という生き物は、当然に頭が良い。

偏差値とか暗記とかのいわゆるお勉強系頭脳は当然さることながら、

頭の回転とか概念と概念をつなげる発想とか、そういう

地頭系スキルも強い人が多い、ように思う。

とするとなんの取り柄もない、強いて言えば意味のない文章なら

延々と書き続けることができるぐらいしか胸を張って他者より秀でていると

いえるスキルを持ち合わせていないイチ小市民たるオレとしては、

やはりそこにいくばくかのコンプレックスを感じてしまうですよ。



しかも、彼らの多くはハードワークを全く厭わないし、

それを軽々と乗り越える肉体的な頑健さも持ち合わせている。

それが本音かどうかはまぁさておき、患者さんのためという理念に身を捧げ、

土日だろうが深夜だろうが早朝だろうが、必要であればいくらでも働く、人が多い。

一人不夜城、一人コンビニと謳われた前職時代のオレも裸足で国道2号線を

逃げ出すような勤務体系を楽々とやりきり、あまつさえそこから

飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを繰り広げる始末。

中堅といっても全く不自然でない年齢の、壮年医師が当直勤務明け朝一番の

会議で切れ味鋭い解釈と洞察と直感でバシバシ快刀乱麻していくもんだから、

前夜に熟睡して頭シャッキリお目めバッチリで参加しているはずなのに

灰色のアイディアしか浮かんでこないオレ、顔面ブルーレイ。

何だこれ、っていう、劣等感。



もっと言えば医師という仕事は、本質的に苦労が多い。

医療技術は日進月歩の勢いで進化しているがゆえ、勉強は怠れない。

医師になるというのは決してゴールではなく、

むしろ終わりなき修行の旅の始まりに過ぎないわけで。

もちろん勉強していればそれで良いわけでなく、

人の命を守り、救い、慈しむタスクが連日押し寄せる。

中には理不尽なクレームをつけてくる患者さんもいて、

精神的なストレスも並大抵ではない。

だってちょっと聞いてくださいよ、旦那。

医師が診察の合間にペットボトルのお茶を飲んだとして、

それを見た患者さんが「仕事中にお茶を飲むとは何事か」

なんて言ってくるわけですぜ?

いくら何でもそれはひどいでしょ?

でも、実話なんですよ、奥さん。



そりゃね、高給もらって当たり前でっせ。

多少の役得があっても良いじゃありやせんか。

医師は辛いよ。

横で見ていてそう思う。

ただ、だからこそ、それがゆえに、

自分のショボさが強調されて凹むわけでもある。

オレも、先生方に張り合って頑張ろうっと。

対等のパートナーとして二人三脚、車の両輪になれるよう

やれるだけ頑張ってみてーよ(山崎まさよし

よし。



それじゃ。

はいどうも、

気を緩めた瞬間に1年が経過していた、

使用上の注意です。

前回の更新からまるまる1年。

お元気ですか? by 井上陽水

まぁこちらはあれから色々とありまして、

どこへ行っても置かれた場所で咲き誇るべく懸命にトライ&エラーを繰り返しつつ、

賢明な読者諸兄はもうお分かりのように結局馬車馬人生からは逃れられず。

今日も明日も明後日も、この命尽きるまでガシガシ働き続ける毎日です。

件名に「【悲報】残業規制の影響ど真ん中」とか付けかねない勢い。



それはさておき、結局のところ今を遡ることウン年。

月間残業時間が三桁オーバーも何のその。

厚労省から公的に心配してもらえる生活を送っていたあの頃と比較して、

業務として拘束される時間は確かに減ったのだ、けれども。

その内容というか内実というか実質の部分では今も結局

現場作業員のレベルを超えることができず。

若さという有限の価値をすり減らしてしまったために無理も効かず。

豪速球で鳴らした本格派のエースピッチャーが、

運動能力の衰えとともに変化球と投球術で打たせて取る技巧派へ

モデルチェンジするがごとく、社会人もレベルアップなり

場面転換なり進化なりを遂げねばならんわけで。



抜群の反射神経でことごとくエースストライカーを止めてきた

カテナチオディフェンダーだって、動体視力やら筋力やらの低下に

あわせて身体能力任せのディフェンスから洞察と読みと経験とに

裏打ちされた先読み型マジシャンディフェンダーに生まれ変わるように。

片付けても片付けても止むことのない雪のように降り積もる案件を、

またとにかく脇目も振らず片付ける毎日を卒業すべきなのですよ、オレも。

一人の大エース、絶対的守護神に頼るチームづくりは、

その大黒柱の衰えとともにやがて衰退する。

創業者というカリスマ亡き後、どれほどのベンチャー企業が生き残るのか。

いつだって誰だってどんなときだって、やっぱり人は昨日の自分より明日の自分が

賢くなったり知恵が付いたりスキルを学んだりしないといけないんです。



いつまでも、あると思うな、溢れるエナジー(字余り



手数で勝負する時代は過ぎた。

パワープレイで難局を乗り切るトレンドは終わった。

これからはNEW・オレ。

ニューオレ。

ニュレ。

一つ一つの案件のディレクションではなく、組織のディレクションを。

現場現場で辣腕を振るうプレイヤーではなく、

大所高所からパズルを組み立てるプロデューサーに。

全力疾走で駆け抜けるスプリンターから、

局面ごとのペースを変幻自在に操るマラソンランナーに。

人の成長に終わりなし。

人の進化に終わりなし。

人の革新に終わりなし。

終わりなき、ニュレ。

ニュレ。

はいどうも、

久し振りに夜更かしをしてみたら

やっぱり夜はろくな考えが浮かばない、

使用上の注意です。



この数年、色々と人生の舞台が転回したこともあって、

周辺環境がまさに激変したなぁ、とか思ってみたり。

大きかったのは、転職。

人生の中で20代から60代までの40年以上を費やす仕事は、

つまり人生の半分を使って取り組む一大事業なのであるのは間違いない。

ただ、その事業が終始一貫同じ舞台で踊り続けなければならないものでもなく、

海外の労働者は気に入らない舞台をさっさと自ら降板してまた新しい、

自分に相応しいであろうと思われる舞台へ移ってしまう、らしい。

翻って日本では、感覚的にはつい十年ほど前まで、

一度踏んだ舞台を降りることは許されず、

降板者はさながら人生の落伍者かのように扱われ、

「お前なんてどこの会社に行っても通用しない」なんて、

一度も舞台を変えたことのない先輩役者に根拠のない憶測でしかない

謂れのない非難を浴びるしかないという悲惨としか言えない状況が続いたわけで。



それを思えば彼らの言に言う“落伍者”の仲間入りをしたオレなんて人間は、

結局逃げ出した負け犬だの根気のない今時の若者だの

拾ってやった恩を仇で返す不忠義者だの言われても、

負け犬らしく尻尾を丸めてくーんくーん鳴いてることしか

できない社会的弱者であった、だろう。

感覚的に、十年ほど前ならば。

それでもまぁ今もなお、極々一部の極めて保守的で日本的労働慣行の宿痾とも

いえるような方々は、やっぱりオレを貶して貶めて憎んで恨んで

遠慮会釈も容赦も情けもない言葉という名の刃で切り刻もうとする。

オレは大根でも玉ねぎでもねぇっつーの。



結局何が言いたいのかというとオレは、前の舞台に関わっていた

幾多の人間に対して、オレという人間を別の舞台に立っても通用する

役者に育ててくれた恩義を忘れたことはないし、

これからも忘れることはない、と誓いたいところだが、

その恩義に縛られてあのままあの時の舞台に立ち続けていたらオレは多分、

とても大切で二度と手に入らない何かを失っていたと思うし、

舞台を変えるという一大決心をしたお陰でオレは、

その何かを今手に入れつつあると実感している、ということ。

だからもし、今自分が立っている舞台に疑問やら不安やら不信やら不満を

持っている若い人がいたならば、まずは外の世界を覗いてみると良いよ、と。

そしてぶーぶー言いながらでも良いから今の舞台で一生懸命汗をかいておけば、

別の舞台なのか今の舞台なのかは分からないけれども

いつか必ず役に立つ日が来ると思うよ、と。

縛られず、後ろを向かず。



年を取ると説教臭くなる、というのはホントなんだな。

それじゃ。

はいどうも、

2015年もいよいよ押し詰まってきたので

なんだかんだで多角的な視点が大切なんだ、

とかそういうことを言ってみたい、

使用上の注意です。

“社会”という大波と暴風が逆巻く嵐の海に漕ぎいでて早10年。

酸いも甘いも辛いも苦いもよく分からない不思議な味も、

それなりに味わってきた、と思わなくもない。

悶絶するほど酸っぱい出来事や気絶するほど苦い体験や、

変な汗が滝のように流れる辛いイベントを通り抜けてきたわけで、自分なりに。

つーか改めて振り返ってみて、文字化してみるとなんだか

マイナスな体験しかしていないような、

気もしないでもないが気にしない。

とにかく、10年間の有難うを込めて

まだ将来に光り輝く無限の可能性を秘めた後進に贈りたい。

『何事も裏表よね』

という哲学を。



例えば法の抜け穴をかいくぐって

グレーゾーンを脇目もふらずひた走る企業なり組織があったとして。

そこで働く人たちはやっぱりサービス残業とかサービス休日出勤とか

サービス有給放棄とかしてるわけで。

従業員としては青息吐息で全力前進するしかなく、

というかそうしないと仕事が回らない。

仕事が回らなければ業績が上がらないのであって、

業績が上がらなければ、多いとか少ないとかは別にしても

サラリーが手に入らない。

だからサービス業的勤労生活を送ることに対する

不平とか愚痴とか不満とかボヤキとか不信とかはとにかくまぁ一回

ぐっと胸の奥にしまいこんで、

グレーゾーン全力疾走型企業に青春を捧げるしかないわけです、ええ。



と、こうやって描写すると数年前から突然流行りだした

ブラック企業のレッテルが想起されるわけであるのだが、

この裏面を探ってみる。

つまり、物事を多面的に捉えてみようという試みだよ、ワトソン君。



当然ながら従業員個人にとって無理な勤務は、心身の疲労を拡大再生産する。

そしてそういうグレーゾーン全力疾走型企業ってのは得てして

サラリーも大変お買い求めやすい価格に仕上がっているのであるからして、

物質的な充足もあまり期待できない。

何が社会のためだ、何がお客様のためだ、何が幸福な人生だ。

ここまでが表面。

だが、まぁちょっと待て。

全くの逆方向から上記の現象を観察してみるに、

彼は疲労と困憊とストレスと何種かの基礎疾患と引き換えに、

常人でない仕事量という経験値を得ている、ことは間違いない。

余人を持ってして代えがたい仕事、というのはなかなかあるものではないが、

だからといって人一倍仕事ができる凡人というのはどれほどいるのだろうか。

その意味で(ある意味無理やりというか自由意志とは関係なくではあるが)

凡人が凡人たる仕事量の数倍にものぼる仕事をこなした彼または彼女は、

もはや凡人ではなく超凡人とでも言うべき存在にレベルアップしたのであって。

テレレレッテッテッテー(ドラクエ風

だ。



別にブラック企業を肯定するつもりはない。

かといって全否定する必要もないような。

問題は自ら火中の栗を拾う覚悟を決めた、

自由意志に基づく就労・勤労であるか否か、ではなかろうかと。

結局、いかにして良い面に目を向けるか。

いかにして前向きに行動できるかが、その後の人生を変えるのではないかと。

物事の裏表を見つめてみるに、そう考えた次第。

依って件の如し。

それじゃ。

はいどうも、

いつの間にかジョブチェンジしてから1年と半年を過ごしていた、

使用上の注意です。

つまり、広報マン2年生もその半分が過ぎたわけで。

不安と緊張で押しつぶされそうな背中を

ピカピカのランドセルで守りながら、

よたよたと通学路を歩いていたあのか弱い少年もいつの間にか、

かけがえのない存在になるであろう仲間たちと僅かばかりのの世知と、

ほんの少しの自信を胸に、溢れんばかりの笑顔をこぼしながら

颯爽と歩いている、イメージでお願いします(何を?




そう。

知ってる人は知っている。

知らない人は覚えてね。

おいらはボイラー。ミ○ラのボイラー。

使用上の注意こと○○は、

2014年の4月に以前の職場を離れまして。

その後訳あって5月からはとある職場で広報マンとしての第一歩を

踏み出したわけですよ、頼りなく、よたよたと。

あ、○○にはオレの本名が入ります。

で、あんまりこう、前の職場についてあぁだこぉだ書こうとすると

どうしても余計な誤解を招きそうな気が捨てきれず、

ブログという公開の媒体で自由に筆を滑らせるのもどうかと、

自問自答しつつ自重しつつ自粛しつつ生きること早1年と半。

そろそろまぁ時効ではなかろうかと考えてみて、

ふと思い立ったが吉日。

そうだ、京都行こう。

そうだ、書いてみよう、的な。



といっても別に前の職場に対して何かをどうこう言うつもりもなく、

ただただ「転職してたんですよ」という事実を、顔も名前も知らない

法律学的に全く正しく言うところの“善意の第三者”へお知らせしてみようかと。

それだけの話。

なので改めてお断りを述べる。

前職関係者の皆々様、何かを期待しているのであれば今すぐ離脱されるが良い。

ここ(ブログ)は貴兄らにとって別段何かを得られる場所にあらず。

唯一、使用上の注意こと○○が、

「あぁ今日も元気に生きているんだなぁ、ムダに」

と思えることが収穫といえば収穫かも知れない程度の立ち位置ですよ。

あ、○○にはオレの本名が入ります。



閑話休題。

1年と半を、全く別の環境に身を置いてみて思う。

世間は広いようで狭く、社会は冷たいようで温かい。

そして人生は長いようで短く、平坦なようで凹凸。

順風を満帆に受けて滑るように海面を行くときがあれば、

逆風と大波が逆巻く嵐の海をひたすらにやり過ごすときもある。

楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。

人生万事塞翁が馬であり、禍福は糾える縄の如し。

あの頃の生きた証は、今もオレの中で手触りを持って生きている。

今の自分で良かったと、思えるならそれで良いじゃないか。

未来の自分に期待しながら、タバコでも吸おう。

それじゃ。

はいどうも、

クリエイティブの未来はどっちだ?

使用上の注意です。

いや、まぁそんな大上段に構えても大した結論は持ちあわせていないんだけれども。

もっとこう卑近な、身近な、身の回りの世界に限定して、

クリエイティブ業界を志す学生諸君に伝えたい。

そんな気分。



ちなみに前回は、取り敢えず最近は制作物の相場が右肩下がりを続けていて、

過去水準の売上を計上するには量をこなすしかなく、

結局心と体をすり減らして現状維持が精一杯、というのが現実だ。

という話をしてみた(つもり)。

クリエイティブの現実 ~絶望編~」。

だからこそ軽い気持ち(例えばカッコ良さそうとか華やかだとかいう理由)で

クリエイティブ業界を目指す学生には、「やめとけ」と言わざるを得ない。

ただ、それではあんまりにもあんまり。

そして同じ事は自分自身にもいえるのであって、

ここで何とかしないと徐々に茹でられていくカエルのごとく、いつの間にか死ぬ。

それはいかん。



正直、世の先達たちがとっくの昔に導き出した結論ではあるのだが、

結局は「高付加価値路線」に転轍しなければ生き残れないんだろうなぁ、と思う。

だって、コスト競争は無限の広がりを持っているのだからして、

単純な体力勝負で最大手に勝てる道理はない。

だからこそライバル企業には実現できない何かを付加して、

相場よりも高い金額でも発注してもらえるようになるしかない、きっと。

こうやって改めて書いてみると本当に普通だなぁ、これ。

まぁ良い。

とにかく身近なクリエイティブで考えてみよう。



自分がこの仕事をしていて気持ち良い瞬間のひとつ。

それは、担当者の「他の企業より高いけど○○さんにお願いします」

っていう言葉を聞いたとき。

あ、○○には俺の本名が入る。

ここにきてさらにベタな展開だなぁと思うけど、まぁ良い(2回目)。

競合企業にはない自社(あるいは自分)オリジナルの価値を乗せられるか。

それが生き残りのカギだと思う。

他の人より熱心、他の人より分かりやすい、他の人よりかしこい、

他の人より本質的、他の人より論理的、他の人より面白い etc…

別に何でも良いんだよ。

ただ、それが「ほとんと同じだけど強いていうなら」レベルだとまずい。

明らかに競争相手を圧倒する程度に、上回る必要はある。



ここまでを踏まえて、クリエイティブに挑戦したい、

広告業界に就職したい学生(その他の若人)に告ぐ。

どんなに優れたクリエイティブ能力も、仕事にならなければ無価値だ。

お金を産まない限りキミたちの能力は会社にとって必要ない。

だからこそクリエイターになりたいのなら、人間力を磨き給へ。

そして人一倍勉強して、人一倍遊んで、人一倍努力し給へ。



相場の下落に対抗するには量をこなすしかない。

それがイヤ(あるいは無理)なら付加価値を高めるしかなく、

そのためには人一倍努力しなきゃならない。

そう、結局クリエイターはしんどいのよ。

それを楽しめる(自信がある)なら、エントリーどうぞ。

個人的には、オススメしない。

はいどうも、

ブログのヘッダに記載している通り

しがないプランナーをやっている、

使用上の注意です。

「プランナーナニソレ美味シイノ?」と思う人がいるだろうから少し説明。

プランナーとは、(主に広告や情宣物の)制作業務において

到達目標を設定して発信すべきメッセージやコンセプトを検討・決定し、

コピーライターやフォトグラファー、デザイナーなどと協力しながら

全体のハンドリングを行う仕事のこと(多分)。

会社や業界によってはディレクターとか、

クリエイティブ・ディレクターとか呼ばれることもある。

まぁ俺の場合、プランナーと名乗りながらコピーも書くし

アートディレクション(乱暴に言えば見た目の管理)もするし、

場合によっちゃあ写真も撮るし、簡単なコーディングもしちゃうし、

もはや何でも屋ポジション。

それが俺。

で、今日はそういう様々な側面を持つ俺が、

(主に就活中、あるいは就職を考えている)大学生の諸君へ言いたいことがある。



仕事柄大学生と話をする機会がそこそこありましてな。

で、一応広告とかクリエイティブとか呼ばれる世界に身を置いている俺に、

「広告業界に入りたいんですけど」「クリエイティブの仕事がしたいんですけど」

「文章で飯を食って行きたいんですけど」「コピーライターになりたいんですけど」

とのたもう大学生たちは、

「広告業界(クリエイティブ)で働くのって、どうなんですか?」

と問いかける、俺に。

ここで「どう?」の意味を突き詰めると話が終わらないので今回は、

「クリエイティブ(主に文章)で飯を食うこと」について考えてみたい。



結論から申し上げれば、「やめとけ」である。

仕事は楽しい。

それはもうこの上なく楽しい。

自分が書いたもの、考えたもの、作り上げたものが、

それこそ数万・数十万単位で誰かの目に触れるのは、快感だ。

己の思考が他人の人生に一石を投じ、生じた波紋はやがてさざ波となって

やがて彼または彼女の人生を変えていく。

なんと素晴らしい仕事だろうか。

が、それでも安易な気持ちで広告・制作業界に就職するのはオススメしない。

なぜか。

単価の下落が止まらないから。

やってもやっても売上は増えない、むしろ減る。

単価が下落するなら量でカバーするしかない。

若いうちは良い、多少の無理も効く。

が、そうやって文字通り命をすり減らして文章を紡ぎ出しても、

将来単価が上がることは恐らくない。

というのも、様々な局面でシステム化が進んでいて

素晴らしいクリエイティブを追い求める努力より

効率的な収穫方法(クリック率の改善や申込み率の向上)がもて囃されるから。



まさに労多くして益少なし。

制作を目指す若者にとっては身も蓋もない結論。

そこに救いはないのか?

以下次回。

はいどうも、

自己評価と客観評価のギャップなら誰にも負けない、

使用上の注意です。

非常に甘い自己評価とそうではない客観評価の間に、

多分5人家族がゆうに暮らせるスペースがありそうだ。

いわく、ムダに広い。



それはそうと、

こうした自己評価と客観評価の溝は

世の古今・洋の東西を問わず古くから

人々を悩ませる大問題だ、多分。

特に、会社や学校、地域コミュニティなどのいわゆる

“社会”との関わりなくして生活が成り立たない現代人にとって、

その乖離は来るべき未来を左右しかねない。

なぜなら「オレって仕事バリバリこなして成果もバンバン」と

自分を評価していたとしても、『アイツの仕事はどこか

ピントがズレてて使えない』と客観的に評価されていたら、

「こんなに頑張ってるのにウエは評価してくれない」という思いと

『長い目で様子を見たけどやっぱり使えない』という評価が行き違い、

最終的には「辞めてやる!」『辞めてもらおう』というコトになって、

お互いにとって不幸な終幕を迎えてしまうからだ。

仕事に限らず、学校でもクラブでも塾でもご近所付き合いでもママ友でも、

“自己評価と客観評価の乖離”問題から逃げるコトはできないのである。



この厄介な“自己評価問題”について、

我々はどう振る舞うべきか?

高い自己評価と低い客観評価は、双方が不満を抱えてしまう。

であれば、極限まで自己評価を下げてしまえば良いのか?

少なくとも、(自分から見て)低い客観評価という概念が

なくなるのだから、一見問題なさそうだ。

が、それはそれで別種の問題を孕んでいるだろう。

何よりも達成感・やりがいを感じられず、自信が生まれない。

だって、どれほど成果を挙げたとしても自己評価が辛すぎると

「いやいや、私なんてもんは何をやってもダメな人間ですから」

なんていう結論に落ち着いてしまうから。

そんな人生はイヤだ。

それに、“評価する側”からしてもやっぱり、

『もっと手柄を誇ってくれないと評価しづらい』とか思われがち。

ちっ、めんどクセェ



まぁ理想を言えば、妥当な客観評価という前提があって、

その水準に限りなく近い(あるいはやや低い)自己評価が

実現できたとき、適度な飢餓感と達成感が両立できると思う。

ただ、そもそも“妥当な客観評価”とはなんぞやと考え始めると、

客観評価の妥当性を判断する客観評価が必要となり、

客観評価の妥当性を判断する客観評価の妥当性を判断する(以下ループ、

となって終わりがない。

一方の自己評価にしたって、客観評価の水準をどこに置くかで

結論は全く異なってくるのだから、結局答えなぞない。

つまるところ、自己評価にせよ客観評価にせよ

絶対的最適解がないのであるからして、

やはり我々は今後もこの問題に悩みながらもどうにか付き合っていく他ないだろう。

あとは野となれ山となれだコンチクショウ。



個人的な感想を以ってオチに代えるとするならば、

自己評価と客観評価の間に横たわる

5人家族向け相当のスペースを取り敢えず、

3人家族向けぐらいまで狭くしたいなぁ、と。

夫婦+赤ちゃん一人ぐらいのイメージ。

それじゃ。

はいどうも、

つい先日「働く理由」について考えてみたけど結論が出ない

と書いてみたらタイムリーな記事を見つけて激しく同意した、

使用上の注意です。

その記事がコレ。


ざっくり乱暴にまとめてみると、

(前略)

労働は幸福であり、労働の対価は新たな労働。

ゆえに労働には終わりがない。

そんなエンドレスサイクルを回す原動力とは、『俺最高!』感覚。

高いハードルを越えた俺最高。

クライアントの役に立てる俺最高。

会社の利益を計上できる俺最高 etc…

『俺最高!』感覚=自己愛。

また、チームリーダーとして責任と部下を任された場合、

メンバーが『俺最高!』感覚を味わっている姿を見て

メンバーを幸せにできてる『俺最高!』が成立するので、

自己愛も突き詰めれば他己愛として無限に拡大していく。

それらの『俺最高!』感覚=自己愛こそ終わりなき

労働サイクルを動かすエネルギーであり、働くコトの理由である。

(後略)

って感じ。



確かにコレだ。

働いていると数々の失敗や挫折を繰り返した末に、

いくばくかの成功体験を手に入れるコトができる。

たとえそれが全体論として失敗だったとしても

個別具体論の範疇では成功したと言えるケースだってある。

そうした小さくても確かな成功体験は成長とやりがいをもたらすものであり、

簡単に言えば「ドヤ顔」をもたらす福音なのだと。

そうした『俺Tueeeeeeee!』感覚が期待されるからこそ

人は日々の激務に対して心折られるコトなく

毎朝会社に向かえるのだと思う。

また新たな案件と苦難と徹夜と体調不良を呼ぶ悲劇のファンファーレが

高らかに鳴り響いたとしても、嬉々として死地に向かうエネルギー。

それが近い将来の全能感、多幸感、達成感、充足感ではなかろうか。

頑張れば頑張っただけのリターンが見込める。

そんな期待値が脳ミソの奥底に刻まれた報酬系を活性化させ、

オレを動かし続けているんだね、多分。



あと、自己愛を拡大すれば他己愛につながるという考え方は、

内田樹氏の著書でも読んだコトがある。乱暴にまとめるに曰く

「利己主義とは徹底的に自分を利するために行動するというもので、

 一見自己中心的な行動を肯定するように思えるがさにあらず。

 結果として自らを快適な状態に持っていくためには

 ある瞬間は自己犠牲的な選択を必要とするのであって、

 利己主義を徹底することは社会の安定にさえつながる」と。

例えば親友との蜜月を維持するコトが自分を利する行動だとしたとき。

その親友が機嫌よく自分と接してくれるよう振る舞う必要がある。

だとすればときには自らの欲求を抑制して親友の意向を尊重するべきだ。

なぜならそれが直接的には他己的な行動だとしても、回りまわって自分が

求めている快適な状況を創り出すわけだから、結果的に利己主義といえる。

って感じ。



ってコトから、オレが働く理由は『俺最高!』を味わうためであり、

幸せを追求するためにはオレを滅する必要もある、という結論が出た。

うん、何だか胃を壊しそうな気がするのは気のせいですか?

気のせいですか。

そうですか。

それじゃ。

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