新・使用上の戯言

意味がない、という意味を求めて紡ぐ、無意味な言葉の連なり。

カテゴリ: お仕事系

はいどうも、

基本的に不真面目、

使用上の注意です。

ただ、根っこが真面目なコトに加えて見た目が真面目に見えるらしく、

基本的なオレ評は「真面目な人」だと思う。

まぁ確かに小心でヘタレで俗物なオレは日々、

イチ小市民として真面目に暮らしているのであるからして、

その言動の大部分は真面目な要素で構成されている、ハズ。

だから、オレが普段どれだけふざけた発言を重ねていても

それはオレの本質を表しているわけではない、

というコトを肝に銘じて頂きたい。

その証拠に今日は、「働くことの理由」について考えてみる。

ほら、真面目。



オレが好きな評論家の一人に、内田樹という人がおりまして。

早い話がその人の著作に感化されてみたという訳なのですが。

まぁ彼が直接的に「労働とは」論を展開していた訳ではなく、

単にこの社会のビジネスシステムでは

リスクを取らなければ決裁権は与えられず

決裁権がなければ責任もなく、結果としてその労働は

ビジネスではなくレイバーである、と。

しかるにレイバーではなくビジネスであれ、と。

そういう内容の論考を読んでいると、

そういえば昔の上司は「ワーカーになるな」と

口酸っぱく言っていたなぁと思い出す。

上からの指示に唯々諾々と従い、その意義も目的も

意識せず、ただただ叱責から逃れるためだけに働くのはイカンと。

そう考えると内田氏の主張するビジネス・レイバー論と、

かつての上司が繰り返したワーカー否定論に近似性を見いだせるような。

そんな気がしてならんのですよ。

かたやリスクをとって自ら権利と責任を獲得せよというビジネス論。

もう一方は指示待ち人間ではなく自ら仕事を産み出せというサラリーマン論。

ね?ちょっと似てるでしょ?



で、「人がなぜ働くのか」について考えてみるとどうなるか。

まぁ生活のためとかええもん食べたいとかええもん買いたいとか、

そんな感じの理由が多い気がする。

ただ、そうなると極論すればお金さえ手に入れば良い

という主張も成立するのであるからして、

いわゆる“いい生活”ができれば仕事の中身は問われない、

という結論も導き得る。

が、それは腑に落ちない。

だって、他人に後ろ指差されてまで金持ちになりたいか?

いや、なりたい人はまぁ目指せば良いさ。

でもそんな価値観をよしとしないなら、

何を動機に人は働くのか?

自己実現、というのは最近よく言われる理由だけれど、

それって人によって形が違いすぎて

何を以って自己実現なのかと問われても

なかなか説明が難しい。

それに、何のために自己実現をするのかが分からないわけで。

まぁだからこそ自己実現以上の理由を掘り下げず、

抽象的な用語の段階で結論づけてしまっとるわけですな、世間は。



何だかまとまりがなくなってきたので、

以下気が向けば続く。

これを読んだ読者諸兄は、

改めて自分が働く理由を見直してみれば良いさ(人任せ。

それじゃ。

はいどうも、

人を楽しませるのが好きです、

でも、ジブンが楽しむのはもっと好きです、

使用上の注意です。

ここで注意したいのは、

その考え方は決して自己中心的なものではないとう事実。

つまり、誰かを楽しませたり笑わせたりすることで

「他人を楽しませられるオレカッケー」的な幸せ回路が発動し、

結果的にジブンが一番楽しんでいるということであって。

だから、オレがジブンの人生を楽しむことイコール、

別の誰かを楽しませていること、ってワケ。

冗談じゃないよ、本気だよ。



と、そこまで考えてみて思うに、

誰かを楽しませるってどういうことだろうか。

例えばこのブログで言うと、

誰かを楽しませる文章(=ブログ)ってどんなものだろうか。

読む人に何らかの楽しみを提供できるブログ。

読んでいて思わずクスっとできる小気味良い文章。

それが書ければいつかオレだって、某有名出版社の

やり手編集者の目に留まって出版化→印税生活という

夢のゴールデンコンボが成立する、ハズ、きっと、多分。

だから今日は改めて、楽しい文章・面白い文章・

また読みたくなる文章と、その書き方を考えてみたい。

ただ、この時点で、つまり本題に入る前に、ここまで

字数を浪費している時点でこの文章が万人受けする

名文でないことが明らかだ、残念ながら。



そうやって読者からの評価を極限まで下げた上で、

気を取り直して本題。

人を楽しませる文章といってもイロイロあるわけで。

そもそも“楽しむ”って言葉自体に様々な意味が内包されている。

ガッハガッハと笑える楽しみ方があれば、

ほ~ぅなるほどと頷く楽しみ方もあり、

クスクスと含み笑う楽しみ方があれば、

ホロリと涙する楽しみ方もある。

ただ、そのどれもに言えるコトを考えるに、

文章を読んで楽しむとは恐らく、読者の中にない発想・

情報を提示することや、あるいは読者の思いもしなかった

既知の事実の組み合わせを開陳することではないだろうか。

しかもそれらの言葉の連なりが日本語として破綻せず、

文意として分かりやすく頭に入りやすいことも必要だろう。

一読して理解が及ばないような難解な思考哲学は、

文章を楽しむ前に挫折を迎えるに違いない。



と言うことはつまり、オリジナルの発想・組み合わせ方で

平易なオリジナルの文章を編み出していくことこそ、

誰かを楽しませる文章を書く方法に他ならない、気がする。

そう考えた時、ジブンの駄文を振り返ってみると、

何故だか悲しみと切なさと無力感と虚しさと不安感と

絶望が幾重にも折り重なるように去来し、何故だか

モニタが滲んでよく見えなくなるのであって、

現実ってのはこうも残酷なのかという思いを胸に今日はもう寝よう。

明日になれば某大手出版社の敏腕編集者から

ブログ書籍化の連絡が入るはずだから(幸せ回路)。

それじゃ。

はいどうも、

ここ数ヶ月鬼のような忙しさで体を壊し、

それでも満足の行く結果が得られずに毎夜

枕を濡らす使用上の注意です。

もうね、諸行無常のヨダレありですよ(濡らすモノ間違い)。

しかも何気に現在進行形でデスマーチを行進中ですしおすし。

誰かその、高らかに鳴り響く進軍ラッパを止めてくれ。

否も応もなく四六時中鳴ってるもんだからそろそろ耳鳴りがしそうだよ。

止めてくれたやつには漏れなく、素敵な何かを差し上げよう。

マイデスクの引き出しに眠る賞味期限のアヤフヤなお菓子(中国製)か、

マイ案件ケースの奥に眠るそろそろクレーム化しそうな案件か、

好きな方を選ぶが良いよ。

いずれにせよ(俺の)素敵な未来がやってくる。

ファンファーレとともに。



それはさておき、安眠と引き換えに作業時間を確保する

激務の日々を過ごした結果として、僅かながら収穫を得た。

それがApple社のiPhone 4Sであり、iPad2であり。

まぁ前者はマイファーストiPhone・3GSちゃんの2年縛りが

終わってそろそろ機種変でもしようかと考えていた中での

購入だったので、ある意味必然的なできごとかも知れん。

しかし、正直この私がiPad2を購入するとは思ってもいなかった。

なぜか。

我が家の財政を司る最大にして最恐の存在・嫁が原因か?

いや、違う。

なぜなら過去に嫁は「iPad2が欲しいんなら買っても良いよ」と、

夏と秋に2回ものたもうたからだ。

その都度(嫁の唐突な優しさに訝りながら)

iPad2購入熱が俄かにヒートアップしたのだが、

いざ某ヨドバシカメラの店頭で実際のiPad2を触ってみたり、

各種のレビューサイトや個人のブログを見てみると、

「これ、俺の生活にどう使う?」という疑問が湧いて出て、

結局活用シーンが想像できないという理由で自ら購入を却下してきた。

それがどうだろう。

生活スタイルもワーキングスタイルも特に変化を経ない今、

何故か俺の手元にはiPad2。

アレほど考えてやっぱりいらねーやとなったiPad2が、

ここにある不思議。

「メジャーに行くぐらいなら野球を辞める」とのたまった

某ダルビッシュが曰く、「人は変わるものだ(意訳)」。

まさにその通り。

変化は天才に固有の現象にあらず。

いやむしろ、日々の生活に汲々としている平民にこそ、

変化は訪れるのではなかろうか、頻繁に。



俺は変化した。

ある意味進化した。

そしてまた同時に、退化した。

ハードウェア的には全く新しい環境を手に入れた俺の

労働環境は、劇的な進化を遂げたのだ。

その一方で、不要不急な商材を意味もなく

購入してしまうという、死に至らざる病が悪化した。

え?分かりにくい?

つまりドラクエ風に言えば

「使用上の注意はiPad2を手に入れた。

しかし、iPad2は呪われていた!

使用上の注意の物欲耐性が低下した」ってことよ。

これぞ進化に付随する退化。

同時並行的に矛盾することなく並立する変化の態様。

それは、ノマド的ワーキングマンへの第一歩。

遊牧民的な働き方がもたらす、より生産効率の高い日々。

Apple謹製の純正ワイヤレスキーボードと、Incaseの

iPad2スタンド兼用キーボードケース、そして純白のiPad2。

あと、iPhone4S、ノートPC。

これで外出中でもWi-Fiと携帯の電界強度が続く限り、

仕事ができる作業ができる原稿が書けるメールができる。

モバイルルータでもあればもはや敵なしではあるが、

それをするとパンドラの箱を開けかねんので自重する。

ありとあらゆる災厄が己の身に降りかかりかねん。



でも、こうやって自分の仕事環境を自腹で(←ココ重要)整備していくと、

どんだけ仕事したいねんコイツとか思われそうだね、しかし。

別に俺はワーカホリックでもないし社畜でもないし、

どちらかというと家庭を優先して温もりある人生を送りたい派なのに。

それなのに、致命的な性質を持っている訳ですよ、俺って。

アクセルしかない車を想像してもらえれば良いよ。

ブレーキがないのだから、減速するにはエンジンブレーキオンリー。

当然サイドブレーキもない。

制動距離がすげー長いのね、俺。

だから「からだだいじに」って言われても、方法を知らん。

「ガンガンいこうぜ」しか知らん。

で、結局棺に入れられて引きずられて王様にこう言われるわけだ。

「おぉ使用上の注意よ情けない。ウンタラカンタラ…」。

早く自由になりたいなぁ、遊牧民のように。

ワーキングスタイルの話でなく、生き方の上で。

あと、自らの性質からも。

と、自由を求めて去る。

それじゃ。

はいどうも、

課題の仮題は『過大な期待と蘭奢待』にしたったい、

使用上の注意です。

こういうロクでもない韻踏みが好きです、たまらなく。



ただ、そうやって大した意味も意義もない言葉の連なりを

意識的に紡ぎ続けるって、実は結構簡単なスキルでして。

世界で最も習得が困難だと言われている日本語で、

日常何の苦もなく意思疎通を図っておられる諸兄であれば

少しの意識と語彙と、あとは時間さえあればできる所業なワケデス。

なぜならこの文章には意味も意義も求められていないから。

言い換えればクオリティの良し悪しに責任がない、というコトでもある。

当然インターネッツというこれまでにない開放性を

持った公共の場での発言であるからして、何を言ってもいい、

という無責任な態度は許されないが、面白い面白くないは関係ない。

それが腹を抱えて笑い転げるほど高いクオリティを持った文章であろうと、

読むだけ時間の無駄だと憤るほどの駄文であろうと、書くのは自由。

限りなく無限に近い無責任と自由度が、

ライティングの難易度を極限まで下げてくれる。

だから、適当に知ってる単語を並び替えて繋ぎ合わせて

不可思議で懐疑的な態度を定義付けながら疑義を差し挟む文章を書き連ねれば、

”あっ”と言う間に形となる(但し意味はない。意義もない。オチもない)。



その意味で、まったくの個人がブログ上で吐き出す限りにおいてこの

ライティングという作業は、最もお手軽でお気軽で尻軽な

ストレス解消法として、相当のポテンシャルを秘めている。

だって好きなコトを好きなように思いつくままに書き連ねれば、

読者の有無に関係なく自身の思想なり哲学なり思考なりが具体的な

存在として具現化して残っていく(ような錯覚を得られる)のだから。

自分が生きた証とやらを求めがちなヒトにとって、これは楽しい作業だ。



ところが、だ。

このライティングという作業に”仕事”という

ファクターが加わったとき、その性質は180度変質する。

文字列の中に、意味と意義とオチとメッセージを込めなければならないからだ。

しかも、決まった文法とルールとマナーと温度感を絡めつつ、である。

さっきまでの無限の自由度はなりを潜め、代わりに我が物顔で

周囲を睥睨するのはクライアント、か。



「文章を書くのが好きだからライターになりたいんです」。

という人と知り合うときがある。

彼または彼女の”好き”というのが一体どのレイヤーで

語られているのか、いつも気になる。

キミは自分とは全く異なる口調とキャラクターと思想と哲学と

言葉遣いとテンポで、キミ自身が思ってもみない事実やときに

真実でさえない事実を声高に叫ぶ作業、つまり仕事としての

ライティングを好きだと本気で言えるのかね?と。



仕事は仕事である。

そしてプロフェッショナルは常に80点以上の

アウトプットを吐き出し、それを続けてナンボである。

「文章を書くのが好き」と言う理由でそれを生業にしようと

夢見ている青少年がもしいれば言いたい。

もう少し、考え給へ。

文章を書くのは手段であり、過程でしかない。

キミの目的と、望む結果は何だ?

文章を書くことか?

それとももっと別のことか?

その問いかけの先にある答えの方を、大切にし給へ。

それじゃ。

はいどうも、

追いかけられるより追いかけたい、

使用上の注意です。

やっぱさー、ほら、社会人は常に前向きポジティブに

仕事を追いかけるべきであって、間違っても締切とか

締切とか締切とかに追いかけられてちゃイケンのよ。

仕事に追われる毎日は、それこそどげんかせんといかん。

仕事の報酬は仕事、ってよく言うけど、

抱えた案件を常にハイスピード・ハイクオリティで片付け、

かつ次の案件を追いかけた方が自分の成長とか周りの

評価とか、やりがいとか満足感が違うんだろうさ。

だからこそ、追いかける人生を送りたい。



とはいえ、現実はさにあらず。

高々と理想を掲げても実際にそれを実践するには、

血のにじむような努力と頑健な肉体とストレス耐性と

要領の良さと周囲を巻き込んでも嫌がられない可愛げと

論理構成力と事務処理能力とコミュニケーション能力と

速いタイピングスピードと高いモチベーションと

理解力と表現力と、あとは鈍感力?とか、そんな感じで

多種多様な“スキル”が要求されるわけで。

そんな完璧超人がいるのかしら?と疑問に思っても良いですか?

ってか、そんなやついねーよ、的な泣き言のひとつも

こぼしたくなるってもんだよコンチクショー。

が、しかし。

それでもやらねばならん。

絶対に負けられない(案件との)闘いが、そこにはある。

だって日々働いて案件をこなすしか、今のところ

おマンマを稼ぐ手立てがないのだからして。

そう、私はしがないサラリーマン。

だけど夢見るサラリーマン。

いつか完璧超人として周囲の羨望と評価と妬みと嫉みと

その他諸々を一身に集める存在でありたい。

いや、後半部分は不要だが。



とにかく、だ。

サラリーマンに限らず社会人は、仕事を追いかけねばならない。

が、現実の私はそんな理想に程遠い位置にいて、

むしろ迫り来る締切から逃れるために日々全力疾走を続けては

息を切らせて倒れこむ寸前でレッドブル、的な毎日を送っているわけで。

だからこそ、引き続き「追いかけてやる」という気概だけは

持ち続けたいなぁと願う今日この頃なわけですよ。

そう、私はハンター。

仕事を追いかける肉食系男子。

来る日も来る日も案件を追いかける案件狩人───。



と、そんな“追いかけ”トークでふと思いだした。

あれは高校の卒業式。

前にも書いた通り私は片思いの人に告白する勇気もなく、

卒業式という最後のチャンスでさえ告白できなかった己の

不甲斐なさと悔しさに若干の涙目を隠しつつ一緒に友だちと

連れ立ってチャリで校門を駆け抜けようとした、そのとき。

校門の前には同じクラスの女子が3人。

その中の一人は高校3年間で一番仲が良かった女の子。

当然私の片思いも知っていて、色々と相談に乗ってくれた女友達。

遠目からはそんな彼女を他の2人が励ましているように見える。

ここで、普段は惰眠をむさぼっていて肝心なときに機能しない

私の恋愛センサーがピンときた。

「第二ボタンだ」。

…。

その後二人はどうなったのか。

答えは私の実家に今も眠る当時の学ランが知っている。



ヒント:追いかけられるより追いかけたい。

それじゃ。

はいどうも、

ついにこの時がきた、

使用上の注意です。

毎日更新するネタもエネルギーも枯渇寸前ですよ。

それでも何とかひねり出すのが物書きの宿命であって。

安易にはいそうですかとやめられぬのが物書きの運命。

まぁ締切がないのとクオリティが求められないのが

唯一にしてかなりの救いであることに間違いはない。

が、それでもある程度自分で納得の行く文章を書こうと

思ったら、それなりの仕込みと推敲と労力と時間と

手間と、あとは羞恥心を捨て去る勇気が必要なのですよ。



何度か話したかも知れないが、良い文章を書く秘訣なんて

お手軽なノウハウはこの世のどこを探してもない、と思う。

これさえ抑えておけば誰もが笑い、泣き、感動し、

惜しみない硝酸の嵐賞賛の嵐をもたらす、なんてことはない。

誰もがもがき苦しみ、自分の内的世界をほじくり返しては

少しずつ形成していくのが文章だと思うわけだ、私は。

で、結局自分の内的世界にしか答えがないのだから、

問題はどれだけ知識と経験と知見を自らの脳みそに

詰め込めるかが、ネタの豊富さや展開力・文章力に

直結するわけなのですよ、ワトソン君。

クリエイティブの大先輩が言うには、

ヒントは外に、答えは中に、だそうで。

絶えず外からのヒントを摂取し続け、かつ

内なる咀嚼を続けることで、答えができあがる。

自分の中に、いつの間にか。



そう考えると、こうして毎日毎日くだらなくて

愚にもつかない文章を飽きずに更新している私の中では、

一体どんな答えが用意されているのだろうか。

毎日文章を書く中で、どんな答えを吐き出し続けたのだろうか。

一瞬これまでの文章を読み返して分析でもしてみようかと

思ったが、面倒なので時間がないので別の機会に回そう。

賢明なる読者諸氏におかれては、薄々感じていることだろう。

この私の底の浅さや視野の狭さ、知識の偏り、論理の綻びに…。

それでも私は書き続ける。

そこにキーボードがあるからさ。



まとめる。

良い文章を書く方法。

とにかく、外の世界からあらゆる情報を取り込むことがひとつ。

ひたすらに情報を取り込み、自らの引き出しの数を増やすが良い。

そして、とにかく内なる世界の叫びに耳を傾け、

それらに文字という力を与えて具現化することがもうひとつ。

つまり、文章を書き続けろということで。

結局はどれだけの情報を取り込み、どれだけの答えを

文章化するかが、原稿作成能力向上の秘訣なんだろうなと。

急がば回れ。

一朝一夕に能力は身につかない。

私の文章武者修行もしばらくは続くだろう。

だって、これっぽっちも上手くなっていないのだから。

う~ん、これだけ読書に励んでブログを毎日更新しても、

この致命的な面白くなさはどういうことだ。

首をかしげながら去る。

それじゃ。

はいどうも、

嫌なコトは後回し、

使用上の注意です。

だって、嫌なんだもん。



とか何とか言ってたら、

社会人として大成しない。

するワケがない。

嫌なコトを後回しにしない人が

100%必ず大成するワケじゃない。

でも、大成した人は必ず

嫌なコトでも積極果敢に挑戦しているワケで。

ね?たまには良いコト言うでしょ?



え?その言い回しは「はじめの一歩」で

鴨川会長が言ってたセリフを改変しただけだって?

う、うるさいやい!!



話がずれた。

つまりアレだ。

嫌なコトを後回しにせず、むしろ

優先してスピーディに片付けられるコト。

それが結構社会人にとって成功の秘訣だったり。

だからこそ常に意識しようと。

物事のファーストタッチで、

どれだけ先を見通すか。

受けた瞬間に必要な行動をとれるか。

そして次なる刹那、そこにいない。

みたいな。



まぁココでgdgdとブログを書いてる時点で、

それができていないコトの明らかなる証拠である。

という現実には目を背けつつ、

慌ただしく去る。

それじゃ。

はいどうも、

シゴトをほったらかしてブログ更新なう!

使用上の注意です。

こんな時間にこんな場所で、

何やってんだろうか、俺。。。



それはさておき。

世の中には“才能”に溢れた人がいる。

少なくとも、才能に恵まれていると

“思われている”人がいる。

でもそれは勘違い。

誰だって才能だけで勝負してるワケじゃない。

才能なんてほんの少しの要素であって、

その上に途方も無い努力を積み重ねた結果が、

名声であって財産であって酒池肉林なワケで。

「アイツは才能があるから良いよな」なんてのは

負け犬の遠吠えであって努力していない人間のイイワケなんだよ。

分かったか?俺よ。



そう、俺は悲しき勘ちGuy。

妬みと嫉みと僻みと苦味でしかないぜ、俺よ。

だから俺も頑張れ。

頑張れば道は開ける。

評価も評判も人望も仕事も、

努力する人に訪れる。



笑う門には福が来るらしい。

その伝で行くと、

頑張る門には何か来る。

きっと来る。

きっと来る。

きっと来る。



よし、リング風に調教完了。

貞子が来ないことを祈って。

それじゃ。 

はいどうも、

ノートPCを購入して早速営業活動に使ってみた、

使用上の注意です。

Webサイトの提案で、今までは紙ベースで

提案していたものを、今回はUL20A上で提出。

クライアントからは「イメージしやすいね」とのコトで。

まぁ、当たり前っちゃ当たり前。



ぃよ~し、 PCの購入代金分を元取るために、

頑張るぞ~ぃとくらぁ。

それじゃ。 



はいどうも、

昨日から二時間しか寝てないけども、

今からマレーシア行ってきます、

使用上の注意です。

はてさて、どうなることやら。

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